「使いにくい兵器」 そもそもが原点から考えて、ハーグ条約などで化学兵器をいちはやく非人道兵器と決めつけた理由はどこにあったのか。そこにはただ化学の発達による脅威ばかりでなく、もともと毒そのものを悪魔的とする中世、さらにさかのぼれば古代以来のヨーロッパの独特の思想が反映していた一面もあったのではないか。それにしてはその悪魔に魅入られたように、とくにルネッサンス期には毒殺があいついだのだが、これに対しその対極として称えられたのは神に誓って戦う、騎士道である。だからローマの法律家は、 「戦争は兵器で戦われるもので、毒物で戦われるものではない」 といったといわれる。この言葉をアジア出身のウ・タント国連事務総長が報告の中で引用しているのはちょっと皮肉だが、ともかくキリスト教徒同士では毒は用いてはならず、しかしトルコ軍などの異教徒には用いてもよかったのである。 こう考えると、アメリカが当初から「人道的兵器」説を唱えたのも、大洋によって旧大陸から遠さかって、こうしたヨーロッパ的伝統から切り離されたことによる一つの現われとみることもできるのである。 歴史はまた、個人が健全にみえても、国家が病むことがあるのを示している。ハーンのような良識に富んだ人物が、国家の命令に唯々諾々と毒ガス実行部隊の先頭に立って戦場を駈けまわる。ハーバーに至っては、国家を至上の価値と考え、あらゆる科学の知識を動員し開発に狂奔した。しかし、にもかかわらずその最愛の国家に裏切られたハーバー。また二子を失ったネルンストの悲嘆。前の戦争の教訓から化学兵器製造を必死に阻止しようとしたが空しく、の破滅を予言して死んだボッシュ。さらには、ふたたび狂気にまきこまれまいと研究ら、その研究成果がまたたくまに技術に転用されて、核兵器が開発さ知ったときのハーンの涙。これらはなにを訴えるだろうか。 戦争は、病んだ国家に対する手荒いが有効な治療法である。近代国家が人類の文化に及ぼした貢献は大きいにしても、世界観を異にする国がある以上、戦争の危険はたえずある。そのためにある程度備えることは必要だろう。しかし、その戦争で健全な国がつねに勝者となるという保証はなく本当は病気は治療よりも予防である
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