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全ての謎は1862年(文久2年)に集中して起こっている。この年に幕末維新史すべてにとって最大の秘密がある。
この年、品川御殿山に建造中であったイギリス公使館を、長州藩の過激派武士たちが襲撃して燃やしている。当時、日本から金銀が流出して激しいインフレが起こっていた。正当な商取引に見せかけて、結局は文明人の方が数段悪賢いわけだから、外国商人たちが日本商人をだまして巨利を得ていたのだろう。さらには日本を政治的にも乗っ取ろうとした。
この外国人どもを殺害(天誅を下す)しようとしていたのが長州藩の武士たちである。襲撃に加わっていたのは、その後「維新の元勲」と呼ばれた者たちである。高杉晋作、伊藤博文(俊輔)、井上馨(聞多)、久坂玄瑞、品川弥二郎らである。
ところが、それから半年後には、この伊藤博文(俊輔)と井上馨(聞多)の2人は、なんとイギリスに密航して、ロンドンに留学しているのである。実は彼らはすでに開国派だったのだ、という説になるのだろうか。
伊藤博文らは、18年後の1881年に再びイギリスに渡り、今度は「日本帝国憲法」をつくるための作業を行なっている。そして伊藤博文は、他の維新の元勲たちが次々と暗殺され、あるいは病死していった後の年功序列で、初代の総理大臣になった人物だ。この日本国家を代表した人物の経歴に分からないところがあるというのはおかしな話だ。
おそらく、伊藤博文や井上馨は、イギリス公使館襲撃の直後に、急激に思想大転向して、開国論に転じ、イギリス人(おそらくアーネスト・サトウ)に説得されて、イギリスの軍艦に乗せられてロンドンまで渡ったのだろう。藩を脱藩することでさえ死刑であった時代に、どうしてイギリスにまで渡ったのか。その旅費1万両は、長崎の商人グラバーが立て替えたらしい。
高杉晋作はその前年に、すでに上海まで行っているという記録が残っている。大村益次郎も上海に行っている。最もよく上海に行っているのは、五代友厚(薩摩藩士)である。
上海にあったのは、ジャーディン・マセソンという大商社である。この会社は現在でもイギリスで4番目ぐらいの大企業であり、中国の権益を握りしめてきた商社である。このジャーディン・マセソンの日本支店とでも言うべき商社がグラバー商会である。おそらく、彼らはすべてフリーメーソンの会員たちであろう。私は陰謀理論を煽りたてる人間ではないが、この事実は日本史学者たちでも認めている。この上海のジャーディン・マセソンが日本を開国に向かわせ、自分たちの意思に従って動かした組織だと、私は判定したい。