目次
まえがき
第1章 マイノリティの居場所が創る生涯学習
1 生涯学習の定義
2 生涯学習におけるマイノリティの居場所の探究
3 多文化共生の居場所としてのフリースペースと学校
(1)差別と闘う信愛塾
(2)フリースペースXと協働するL小学校
(3)開放感あふれるフリースペースX
1.日本語学習サポート
2.教科学習サポート
3.生活情報の発信と相談事業
4.フリースペースXの居場所づくり
4 マイノリティの生涯学習に関する先行研究
(1)地域多文化教育再考
(2)「多文化共生」言説および「援助主義」批判について
5 まとめ
参考文献
資料
第2章 川崎市の多文化共生社会の創造
1 はじめに
(1)国際的な人権思想の高揚
(2)当事者が立ち上がり自治体政策をつくる
(3)教育市民討議と人権思想
(4)川崎市の概要と在日韓国・朝鮮人
2 川崎市の外国人市民施策
(1)多文化共生と「内なる国際化」への取り組み
(2)外国人市民の日本語学習支援
3 「外国人教育基本方針」の策定
(1)主として在日韓国・朝鮮人教育
(2)多文化共生の社会をめざして
4 多文化共生の公民館・児童館統合施設「ふれあい館」
(1)日本初の「ふれあい館」が生まれる
(2)ふれあい館による「おおひん地区」の街づくり
5 「外国人市民代表者会議」
(1)川崎市における多文化共生の元年
(2)地方参政権と外国人市民代表者会議
(3)外国人市民代表者会議の成果と意義
6「子どもの権利条例」
(1)子どもの権利条例の意義
1.自治体と子どもの権利保障
2.子ども観の転換と共有
3.市民立法の理想実現
4.縦割り行政と子ども施策の統合化
(2)川崎市子どもの権利に関する条例
7 まとめ 生涯学習と多文化共生
参考文献・年表
第3章 浜松市における外国人の教育問題と協働—カナリーニョ教室による不就学対策より
1 はじめに
2 浜松市の外国人教育の現状
3 浜松市における教育支援
4 カナリーニョ教室に通う子どもたち
(1)教室の概要
(2)学校だけでは抱えきれない問題群
(3)カナリーニョ教室が有効に機能した事例
(4)学校、外部との連携の課題を示唆する事例
(5)ブラジル人学校から日本の学校への橋渡し
(6)経験から得られたこと
5 マルチエージェンシーによる協働的な支援へ向けて
参考文献
第4章 図書館における多文化サービス
1 図書館の多文化サービスとは
(1)図書館の多文化サービス:その定義
(2)サービスの発展経緯
(3)サービスの意義
(4)図書館の多文化サービスの内容
1.住民ニーズの把握
2.コレクションについて
3.職員
(5)日本の図書館における多文化サービス
1.大阪市立生野図書館の「韓国・朝鮮図書コーナー」
2.むすびめの会(図書館と在住外国人をむすぶ会)
2 言語権について
(1)「言語権」とは
(2)言語権の内容
(3)国際的動向と日本での提起
3 生涯学習と図書館サービス
(1)「教育」と図書館
(2)過去—現在—未来、そしてすべての人へ
4 まとめ:「同じこと」と「違うこと」
参考文献
執筆者紹介
前書きなど
まえがき
本書は、エスニック・マイノリティを視野の中心に置き、だれでもが愛され、生きるための居場所を探すことのできる生涯学習を論ずるものである。
人は生きるために学ぶ。学びは人を生かすものであってほしい。人間とは、人と人、人やモノとの間を生きる存在とすれば、生きるための学びは、他者との共存を前提にしたものとなる。この前提から排除されたり拒否したりする人々の存在も実際には否めないかもしれないが、あえて本書のタイトルは『多文化共生と生涯学習』とした。「共に生きる」もしくは「共生」という用語はいまやさほどめずらしいことばではなくなり、ときには、虹のメタファに象徴されるがごとく「美しい調和」として語られることもあるが、「共に生きる」ことは、美しさとかけはなれた不調和の痛みや、ことばにしがたい濁りをともなうものでもある。人は、交わったり、混ざったりもするが、距離をおいてすみわけたり、隔ての壁をもうけたりしながら、雑多で混沌とした現実のなかにおかれる。
筆者からみれば、生涯学習はいい意味で雑然としている。組織的、体系的な学校教育、または学校教育を補完、あるいは、学校教育ではできないことを行う計画的な社会教育はもとより、偶発的なものまで含めて、あらゆる学びを包摂するからである。そういう意味では、われわれが生きる雑多で混沌とした現実とよく似ている。
多くの人々は、生涯学習といわれても、学びの場を学校や塾以外に想定しづらい。社会教育に熱心な地域の出身者が、公民館などにおいて地域活動等の経験を積んでいる場合もあるが、実際にはまれである。たとえば、ふだんからなにげなく行っていること、図書館で調べものをしたり、図書館のお気に入りの席で好きな本を読んで時間を過ごしたり、博物館や美術館の評判の展示会を家族や友人とつれだってみに行ったり、交際している彼・彼女と動物園や水族館に遊びに行ったり、テロと貧困と平和を考える学生企画のワークショップに友達から誘われて参加してみたり、ドキュメンタリー映画をみて障がいのある高齢者介護問題の深刻さにふれるなど、これらすべて生涯学習にあたるといわれてはじめて、「え、そうだったの?」と、生きる場のここかしこに学びが溢れていることに気づくのである。
生涯学習を説明する際に、「いつでも、どこでも、だれでも学べる」といううたい文句が唱えられることがあったが、生涯学習では、あらゆる学習者を対象としているため、多数派ではないマイノリティも学びの主体として考えられる。とりわけ人権としての学習権保障の観点からみるとき、社会的権益の周辺におかれがちなマイノリティの彼・彼女らがマジョリティ以上に学びの主体として尊重されるべきであることを理解することも肝要である。筆者らは、社会の圧倒的な主流をなすマジョリティの陰に隠されてしまいがちなエスニック・マイノリティに目を向ける。
マイノリティは、エスニシティ、心・身・知的障がい、ジェンダー、宗教、社会階層、さまざまな角度からとらえられる。本書ではエスニック・マイノリティを視軸に据える。人々が国際化された時代を生きるにあたって、エスニック・マイノリティは協働的主体として社会を構成する。筆者らは、マイノリティの言語や習慣、生い立ちを尊重して提供されるサービスや教育を、多文化サービス、多文化教育、もしくは多文化共生教育と呼ぶ。
マイノリティと「共に生きる学び」を本書で掲げ、多文化サービス、多文化教育を語るうえで注意したいことがある。それは「共に生きる」、ないし「多文化共生」の内実・実態が、マイノリティからもマジョリティからも、批判的に問い直されてきているということだ。たとえば、マイノリティからなされた批判には、「共生」の内実はマジョリティの自己実現のためにマイノリティをステレオタイプ化して消費する事態だとするものがある(リリアン・テルミ・ハタノ,「在日ブラジル人を取り巻く『多文化共生』の諸問題」,植田晃次、山下仁編『「共生」の内実−批判的社会言語学からの問いかけ−』三元社,二〇〇六)。ステレオタイプ化による消費は他者を効率的に利用しようとすることからおこる。また、マジョリティからは、たとえば、「共生」は政治経済的格差の現実を容認するなどの問題点をはらんだ、曖昧で漠然とした言説に過ぎないという批判があり、「共生」にかえて、政治経済的領域での格差解消を重視する「統合」の提唱がなされている(梶田孝道・丹野清人・樋口直人『顔の見えない定住化−日系ブラジル人と国家・市場・移民ネットワーク』,名古屋大学出版会,二〇〇五)。
ハタノは、「多文化共生」はマイノリティの側から発せられたことばではないと断じた(ハタノ、二〇〇六)。たしかに、あらかたの傾向としてはその通りである。浜松で外国人支援のNPO(非営利組織)活動に携わった小林芽里は、「多文化共生」をマジョリティからマイノリティへむけられた片想い(「小林芽里への聞き取り」,矢野泉,二〇〇六・七・九)と表現した。しかし、マイノリティの側から発せられた「多文化共生」(李仁夏,『歴史の狭間を生きる』,日本キリスト教団出版局,二〇〇六)が多文化共生施策を展開した川崎において大きな働きをしてきたことも忘れてはならない。また、「共生」にかえて「統合」を提起するという批判についても、「多文化共生」という理念と、政治経済的な格差の解消をめざす「平等」の理念を組み合わせて統合政策を論じている山脇啓造らの努力は見落とせない(山脇啓造・柏崎千佳子・近藤敦,「多民族国家日本の構想」,金子勝、藤原帰一、山口二郎編『東アジアで生きよう!』,岩波書店,二〇〇三)。
これらの批判をふまえて、「共に生きる」は、理念としては、政治経済的な格差を温存し他者を搾取的に利用する差別的な共存ではなく、文化的な違いをステレオタイプ化せずに尊重しながら、政治経済的な格差の解消を視野に含んだ対等な関係づくりをめざす共存ととらえたい。
こうした構想のもと、1章では、生涯学習の定義をジェルピ、Eに学び、エスニック・マイノリティが学ぶ居場所を保障するという観点から、横浜南部の下町に創設された信愛塾、横浜西部の外国につながる住民の集住団地で多文化共生の学校づくりをめざしている市立L小学校、小学校と協働しながら新たな多文化共生感覚で活動するフリースペースXについて語り、社会教育学における居場所や多文化共生の生涯学習に関する先行研究のいくつかを踏まえて、マイノリティの居場所が創る生涯学習を論ずる。
2章では、長らく川崎の生涯学習の施策づくりに取り組んできた伊藤長和氏が、外国人教育基本方針、多文化共生の社会教育関連施設「ふれあい館」、外国人市民代表者会議、子どもの権利条例など、注目すべき実績を講ずる。
3章では、教育社会学や地域教育計画論を専門としている林嵜和彦氏、そして、多文化共生教育において先進的な取り組みをしたカナリーニョ教室(二〇〇七年三月で解消)で、実際に指導をされていた山野上麻衣氏が、南米日系外国人が多住する浜松のニューカマーの教育問題について、学校外の学びの拠点にふれながら論を展開する。
4章では、図書館情報学を専門とする小林卓氏が、言語権を軸に図書館での多文化サービスを論ずる。多くの人々にとって、もっとも身近な生涯学習施設は図書館である。
本書は、まず教育に関する問題を学ぶ学生や、マイノリティと生涯学習に興味を持った社会人はもちろんのこと、こうした問題に興味がなかったという人々にも読んでもらいたいと意図したものであるから、平易な表現を用い、注をできるだけひかえて、引用したり参考にした箇所のみ出典がわかるように明記する。学生や社会人の中には、留学生や在日外国人、あるいは国籍が日本でも民族や出自に違いのある人々、国際結婚により生まれた人、外国で育った経験のある人、障がいのある人、宗教的少数者なども含まれるだろう。読者のなかに、こうした文化的背景を異にするマイノリティ、あるいはマイノリティを友人に持つ人たち、マジョリティであることに居心地の悪さを感じている人たちがひとりでも多くいてくれたら幸いである。
矢野 泉