紹介
「福島への関心が薄れてる」そういう言葉に疑いをもっています。
というのも、私自身、震災から6年、おおやけの場で一度も福島のことを語ってこなかった人間だったから。
発露として外から見えなければ、「ない」のと同じ。でも、私の中に、ずっと福島はありました。だから、もしかしたら、そういう人がたくさんいるんじゃないかなぁ、と思っています。
政治的な文脈から離れて、福島のことを考えたい。フツーに福島のことを語りたい。でも、そのフツーが少し難しくなってしまったように感じています。この「空気」を柔らかくするために、『見る』『聞く』『考える』とは何か、『正しさ』とは何か、そして『私』とは何か。そういう当たり前や、日常を本気で問い直してみる(結構楽しいです)……、それが『たたみかた』からの提案です。一見すると、かなり遠回りだけれど、すごい効き目がありそうなんです。
本特集では、根源的な『問い』を胸に実践する人たちが出てきます。取材をする中で、私もたくさんの勇気をもらいました。
まったく違う切り口なのに、私には異口同音に聞こえました。あなたはどう感じるでしょうか。ぜひ気になるところから読んでみてください。
目次
小松理虔「千円の大トロ」
石戸諭「言葉を探している」
吉永隆之×江川信吾×清水公太「よそ者だった僕らの視点」
安藤歩美「「個人」から「社会」を見るということ」
山登宏史「あの日「東京」にいた僕が「福島」をどう描いてきたか」
神保賢志「クロとシロと」
桑子敏雄「根源的な問い、そして、合意形成するということ」
藤田一照「教えて、一照さん」
永井陽右「この世紀のヒーロー」
辻徹×鈴木瞬×和泉直青「鎖国2.0」
三根かよこ「宿命としての、お父さん。」
前書きなど
創刊の物語(巻頭より)
上野の魚屋『魚草』で刺身を食べていたときのこと。
「なんで『たたみかた』を出すことにしたの?」と、小松理虔さんに訊かれた。
私は少し考えて「苦しかったから、ですかね」と答えた。
震災以降。
できるだけ信頼できる情報を探し続けていた。
何か一つの「正しさ」を探し求めていたとも言える。
でも、この6年で私がたどり着いた結論は、
そういう「正しさ」は世界のどこにも存在しない、ということだった。
そりゃあ、見つからないわけだ。
ないんだもん。
そんな腑抜けた感想が、6年間で出した、私なりの答えだった。
私は、私が思っている以上に、
自分がこしらえた「正しさ」から自由になることはできない。
外せども、外せども、正しさに絡めとられてしまう。
政治だけの話じゃなくて、家族や友人、会社や、あらゆる組織。
全てに言えることだと思う。
私はそんな気持ちを抱いたまま、
「無関心層」とか「中間層」みたいなところで、
ただ、ただ、漂い続けていた。
たたみかたを創刊しようと明確に決めたのは3年ほど前。
心には『ゆらぎ』のようなものがある。
ゆらぎは空気みたいなもので、その実体を本人さえも把握・言語化することは難しい。
だから、その『ゆらぎ』はメディアで取り上げられることはない。
でも、それは〝人間らしさ〟でもあると思う。
知り合いに『たたみかた』の構想を話したとき。
『意見やスタンスを示せないメディアに、存在価値はない』と言われたことがある。
でも、私は「そうかなぁ」と思うのだ。
だって、そういう意見やスタンスが、
どこからやって来たのかが、私にとっての問題なのだ。
***
なにか一つの「正しさ」は存在しないという結論に至ったからこそ、
その存在しないはずの「正しさ」を探せたらなぁと思うようになった。
できる限り、全ての生命が調和的に生きられるように。
傷つけ合わないですむような、そんな「正しさ」。
でも、それを言葉に出した瞬間に「それは、あなたの正しさですよね」と、
すぐに「正しさ」は「正しさ」の中に吸収されてしまう性質を持つ。
永遠のイタチごっこ、永遠の水掛け論。
それでもなお、
一歩でも調和的に生きられる方向に進むことができるように。
私は「正しさ」を探していきたいと思っている。
『たたみかた』では、主体を個人において、話を進めていく。
まずは〈私のこと〉から、もう一度。
私のことは私が一番わかっている。何をいまさら。
過去の私はそう思っていた。
だから、誰かにそう思われても、無理がないと思っている。
それでもなお、
もう一度、『見る』『聞く』『話す』『考える』、
そういう当たり前の行為を考える。
社会がどうとか、他者がどうとかは置いておいて、
一度、自分の家に帰ってみる。
「私が見る、聞く」
「私が感じる」
「私が語る」
そういうことに意識を向けてみる。
そこから、他者や社会を見つめてみる。
たたみかたとは「方向性」のことだ。
方向性は、今、この瞬間から決めることができる。