紹介
元岩国徴古館館長が、40年間の研究成果をまとめた本。地元研究者ならではの新しい視点で、錦帯橋の価値を問い直した渾身の1冊です。ヒマラヤ山麓で発生した技術が、いかにして、「錦帯橋」という橋となって結実したのか? そこには奇跡的な出会いがありました。
現在の再建した橋の「橋梁技術」で世界文化遺産を目指すのは難しい。でも、技術の伝播と結実の奇跡的な例であることに注目すれば、世界文化遺産の可能性も出てくるのではないか、と著者は提案します。また、著者は、先人達が水流を調整していたことを示す史料を新発見。錦帯橋が長年洪水で流されなかった謎を解明します。篤姫が錦帯橋を渡ったときのエピソードなど、橋や歴史の専門家でなくても楽しめるような要素も盛り込まれています。
目次
Ⅰ 中国の端(渡河手段)
Ⅱ 朝鮮の橋
Ⅲ 日本の橋
1 橋のおこり
2 臂木橋
3 船橋
4 吉川広家の岩国入封と城下町造営
5 岩国の橋
6 錦帯橋
7 錦帯橋を題材とした作品
8 錦帯橋の価値と調査
前書きなど
錦帯橋は岩国三代藩主吉川広嘉の指導下に、延宝元(1673)年に創建された木造アーチ橋として知られている。しかし、その技術はどこからもたらされて、どうして岩国で錦帯橋という形で結実したのか、等々不明な点が多く、明確な言い伝えもない。
近年よくいわれているのは、江戸参府の時に見た甲斐の猿橋(臂木橋)にヒントを得て考案したのではないか、という説である。これは岩国徴古館学芸員(のち館長)であった故・桂芳樹氏が最初に唱えたものである。それ以前に語り伝えられてきたのは「かき餅説」であった。
吉川広嘉がかき餅を焼いていて、反り返ったところを箸で押さえたところ、跳ね返す力が大きかった。これをヒントに跳ね橋を考案した、というものであった。今ではこの説を信ずる者は勿論、唱える者もいない。
また、錦帯橋の構想は僧独立がもたらした『西湖志』に載っていた西湖の蘇公堤を見て広嘉が思いついたとされているが、これも故・桂芳樹氏が吉川家に伝来する『西湖志』の写本に付けられた独立自筆の序文の中から発見したことである。現在では、誰もが当然のこととして猿橋と西湖の蘇公堤のことを記している。
猿橋の技術はチベット、或いはインドのカシミールのスリナガルあたりで発明されたものといわれているが、これがどのように錦帯橋へつながっていったのか探ってみたい。
また、錦帯橋が架設されるまでの横山・岩国川(錦川)の様子は史資料の制約からよくわからない点が多いが、これらについても考察したい。
今、「錦帯橋を世界文化遺産に」という運動が展開されているが、後述のように、戦後の再建時に橋台を平行にしたことにより、技術の質が平易化し、江戸時代からの伝統が途絶えてしまったので、橋梁技術で世界文化遺産をめざすことは難しいと思われる。むしろ、技術の伝播と結実の奇跡的な例として錦帯橋を見ると、世界文化遺産の可能性が出てくると、私は思う。