前書きなど
献辞
辰村さんとの出会い
辰村さんとはじめて出会った場面を,なぜか今でも実に鮮明に覚えています.
当時の私は少しでも退院の可能性のありそうな患者さんを探して,病棟内をうろうろ歩き回っていました.何しろ病棟にはいわゆる社会的入院を余儀なくされている方がたくさんいらっしゃって,精神保健福祉士の私には無視できない状況が広がっていたからです.
その日,畳敷きと鉄格子の見える病室に白い光が差し込んでいて,一人の男性が私に背を向けて正座していました.背筋がぴしっとのびていて,まるで時間が止まったような空間の中にその細身の男性はいました.彼の脇には,筆記用具とお経でも書いてありそうなやや古びた紙が積み上がっていました.「これじゃ,まるで禅寺の修行僧のようだな」と思いました.良い意味でも悪い意味でも,本当に世俗を離れて長い修行に身をささげてきた人だけが放つ独特の雰囲気が漂っているように感じました.
私のその日の目的は,その男性に退院の話しを切り出すことでした.そして,その目的通り,いきなり彼に「退院しませんか?」と切り出しました.少しきょとんとした表情を見せたまま少し沈黙がありました.「ここで死ぬ覚悟をしているのに,なぜ今さら退院なんですか」と彼は答えました.そこには微妙な不快感さえ込められているように感じました.今度は私のほうが言葉に詰まりました.誰でも退院したいと即答するものだと思い込んでいたからです.
私が記憶している辰村さんとの出会いの場面はこんな感じです.(中略)
辰村さんが入院された時代は,日本中に精神化の病院が乱立し,いわゆる「社会防衛的」な思想によって社会からの「隔離」が公然と行われていた時代です.そして,それは「過去のあやまち」ではありません.今なお日本の「長期入院」「社会的入院」の問題は消えていないのです.(後略)