前書きなど
「あの、もし入院させて頂けるのなら、退院後は自分で介護するつもりです。」
私はなんとしてでも、現在祖母がいる老人病院を退院させ、目の前の医師の首を縦に振らせて、この病院へ新たに入院させたかった。そのためには「在宅でみる」という言葉を切り札として使うしかないと思ったのだ。家族側に「在宅で介護する」という強い意思があれば、決して、お荷物のお年寄りを病院に押しつけるような半端な気持ちでお願いしにきたわけではないということがこの医師に伝わるはずだ。それに、祖母の治療はもちろん、在宅介護に向けた家族への看護指導という明確な目的があることで、病院側も好意的に受け入れてくれるのではないかと考えてのことだった。
祖母がクモ膜下出血で倒れてからこの一年、私と母は三途の川を行き来しているかのような祖母を見続けてきた。今、最も悔やんでいるのは、この間祖母の命を守りたいのに自ら動くことができず、病院に任せっぱなしにしていたことだった。もちろん、緊急を要する手術などはプロである医師に任せるほかはない。とはいえある程度状態が落ち着いたあと、思ってもみないような事態が祖母の身に次々と降りかかってくるなかで、私たち家族はなにもできずにいた。そして、本来ならば祖母自身の体のことをまず考えなければならないのに、その矛先が、病院の医師やスタッフに対しての不満や怒りに注がれてしまうことに苛立っていた。
在宅で介護するということは、祖母の命の全責任を背負うという重圧があるが、少なくとも、その責任の所在を第三者に求め、恨み辛みをぶつけることはなくなる。
私はこれまで祖母が入院していた老人病院で、信じられないような出来事を幾度となく目にした。その体験はトラウマのようなものとして、私の心に今も畏怖を残している。
この病院との関係にはほとほと疲れてしまった私たちには、結局、在宅介護という選択肢が必然のように待ち受けていたのだった。目の前に敷かれたレールのように。