前書きなど
「距離化による生産性」ということが問題にされる時、モデル劇という筋の媒介形式が語られねばならない。作者自身が言うように「アンドラは一つのモデルに与えられた名前である」。「『アンドラ』の筋はモデルであって、ヒストリー(歴史劇)ではない」。そこではヒトラー・ナチスが起こしたユダヤ人大虐殺(ホロコースト)という歴史的事件の背景や、その社会的原因はほとんど問題にされていない。それは戦争、ファシズムという複雑なできごとを、その脅威が日に日に迫る隣国の庶民の生活・心理状況の断片をつなぎ合わせることによって、モデル化したものである。これにより、反ユダヤ主義が生み出した人種差別がホロコーストへとつながり、世界を戦争の渦に巻き込んだという、大きな事象の根源に光が当てられる。平和と自由の砦と言われた国においてさえも、人間の野蛮化、倒錯化が起きたという本質的な側面が強調されるのだ。観客に強いインパクトを与え、能動的な舞台参加を促すためには、モデルは否定的なものでなければならない。大切なことは観客が与えられたモデルから自己の現実にあわせてそのヴァリアント(変型)を作りあげ、さらにそれに対するアンチモデルを描きだすことだ。「モデルが変えられてはじめて、歴史から学ぶことができる」のだが、この仕事を「受け手」として観客にゆだねているがゆえにモデル劇は、まだ十分に試されていないがおそらくもっとも可能性の大きなタイプである。この作品は仕掛けの大きい教材劇・教育劇(Learningplay, Lehrstück)と言えるのかもしれない。
フリッシュはブレヒトのオプティミズムに与しなかった。勝者のいないドラマ、主要な人物の死で終わるドラマ、大きな出来事が何ひとつ舞台上で示されないドラマ、変革の契機が見えてこないドラマ、善人を生み出すことのできない社会ドラマ、ユダヤ人の登場しない反ユダヤ主義を扱ったドラマ、遡及的な構造を持ったドラマ……フリッシュは『アンドラ』で従来のドラマの構造や内容の枠を打ち破る作品を打ち立てた。これが本当の意味でのリアリズムなのかもしれない。ただ『アンドラ』の場合は提示されたモデルは必ずしも単純化されたモデルではない。それだけに観客がそのモデルを打ち破るような強い力を発揮できるかどうかは不明な点も多い。だがフリッシュが選んだペシミズムには、どこかに観客に対する深いオプティミズムが隠されているように思える。この強さのペシミズムの中にフリッシュの真髄がある。
(市川明「解題」より)