紹介
排外主義の時代の「道しるべ」。かけがえのない生を「愛の眼」(金石範)によってとらえつづけた在日朝鮮人作家の名著復刊。
「形を異にした生さえ共生となり、苦しみを異にした死さえ同死の意味を含む。それゆえ、書く行為が人間の生に寄りそえる営みであることが、私の勇気を促してくれる」(金泰生)
幼い日に済州島より大阪猪飼野に渡り、貧困と病、そして戦争と分断の時代を生きた著者による、珠玉の自伝的記録。
「歴史によって強制連行された」自らの人生とは何であったのか。無告の民のかけがえのない〈命〉の明滅を「愛の眼」(金石範)によってとらえつづけた在日朝鮮人作家の名著を、気鋭の歴史学者による充実の解説・付録と新発見資料を付して半世紀ぶりに復刊する。(本書とあわせて金泰生の人生を大きな円環として描く連作集『旅人伝説』も同時刊行!)
目次
序章 故郷へ―
第一章 小さな旅立ち
第二章 出会いと別れの間で
第三章 失われたるもの
第四章 母国甦える日々
あとがきに代えて
付録 ある女の生涯
付録 『中野重治詩集』との出会い
付録 野間宏宛 金泰生書簡
解説 「二重の死」に抗する文学 ―『私の日本地図』に寄せて 鄭栄桓
金泰生 年譜
金泰生 作品目録
前書きなど
朝鮮(チョソン)の地図をひらくと、本土のほぼ西南端に位置する木浦(モクポ)からさらに南方の海上に、小さな馬鈴薯を思わせる楕円形の島がぽつりと東西によこたわっているのを見ることができる。それが、私の故郷・済州島(チェジュド)である。済州島の面積はおよそ一八六〇平方㎞、木浦を南方に去ること一四〇余㎞、東北方の釜山(プサン)とは二七〇余㎞を相距て、日本の大分県、高知県の南端とほぼ同じ緯度におかれている。東西八四余㎞、南北四〇余㎞、二五二㎞の海岸線をめぐらし、大阪府や島根県、香川県などとほぼ同じ面積をもつ朝鮮で最も大きい島である。
よく晴れた日には、対馬の西北端から望むと玄海灘を距てて遙かに朝鮮半島の陸影をはっきりと認めることができる、という。一衣帯水ということばはたとえ月並であっても、朝鮮と日本の相対的な距離関係をしめすときに用いられる場合、このことばのもつ市民権を人は決して否めないだろう。
ただ、その対馬はもとより、釜山からさえ二七〇㎞を去る遙かな洋上に距てられたわが故郷・済州島は、決して私の肉眼の前に姿を現わすことはない。それは、これまでのほぼ半世紀もの歳月にわたってそうであったように、依然として今も、私の肉眼の視野をはみ出た故国の海の水平線の彼方に全容を没したままのものである。
いつ頃からか日本では、朝鮮を指して「近くて、遠い国」といいならわしてきている。この矛盾にみちた表現の遠近法は、「近くて、近い」韓・日間の政治的癒着状況を背景にもっていることによって、よりいっそう私を含めた在日朝鮮人のもろもろの心を撃ち、「近くて、近い」韓・日間の政治的カッコの中にくくられた故郷―うしなわれた故郷を渇望する者の心情によりそう人間的な意味をおびてくるようだ。
私にとって、故郷とはいったい何であろう? 私は自分が外部の世界に眼を開きはじめた少年期の終りから今日に至るまで、そのような問いを自分に向けていくたび発しつづけてきたか数しれない。そして今、私は改めて同質の問いを自らにつきつけてみるとき、たやすいはずであると考えていたその応えを、ここへ明快に差出すことになぜか困難を覚える。
石川啄木はかつて、石もて追わるる如くに故郷を棄てねばならなかった苦渋を歌い、室生犀星もまた、故郷を遠きにありて想うものと抒情した。しかし、私は己が故郷を想い描くことはあっても、歌うことが到底できない。私の故郷は、私自身の感性と情念が長い歳月に亘ってほしいままに培ってきた、きわめて作為的な故郷にすぎないかもしれないのだ。故郷を離れてすでに半世紀に近い間、私はついに一度も父母の地を踏みしめる機会をもつことがかなわなかった。私が己が故郷に触れて何かを語ろうとすれば、必然それは知らぬこと余りに多い故郷についてだけである。私には故郷を歌うべき資格など到底ないのだ。