前書きなど
江戸時代には代々名主を務め、明治以降も農業と質屋を生業としてきた由緒ある芦沢家が、平成三〇年に家終いをしてしまった。明治中頃になると御勅使川扇状地一帯が木綿や煙草の大産地であったとき、木綿畑の中に桃、李、リンゴの木が植えられはじめる。大正五年、煙草栽培が禁止になると一気に養蚕に使う桑の畑にと転換してしまう。そのとき大草原のように見渡す限り広がる桑園の中に、森のような大木が茂る果樹の場所になっていった。その果樹を営利として導入、普及に努めてきた人の家でもある。江戸時代の天保年間に、当時としては異例と思える、郷校の「西野手習所」の設立を提起した家でもある。
郷校は本来、幕府支配の代官所が庶民に呼びかけて作り上げた勉強の場である。農民の貧困を少しでも変えようと、子供たちの将来のことを考えた末の行動であったのであろう。天保時代になると、わざわざ代官所に書類を出さなくとも、誰に相談することもなくいくらでも手習所を開設出来た。それなのになぜ、西野手習所は全国的に見てもほとんど例のない、 貧しい村の農民が公の郷学校を作るに至ったのか、公の教育施設として認めてもらわなければならなかったのか。
現在のように施設を作ると補助金が出るのであれば理解もできるが、当時はすべて自分たちが負担しなければならないのにどうして郷学校にしなければいけなかったのか、分からぬまま現在にいたっていた。ただ正規の手続きをしていたため明治の学制が制定されるまで公の郷学校としての扱いはされてきた。あまりにも貧乏村ゆえに決められた給料も出せたか、出せなかったといった厳しい手習所の運営で、師匠も良く耐えぬいて続けられてきたのが不思議である。今まで紙面に出なかった幾多の災難に遭遇してきたことが、 かえって困難をも耐え、奮起する心が湧き出してきたのではなかろうか。江戸時代を通してずっと流れていた儒教の心根があったから続けてこられ、このようなことが出来たのではなかろうか。
幸いにも手習所の創設を提起した子孫の芦沢尉氏が近くであり、筆者が二十代 のころ親しく交流していて、そのとき先祖から聞いた話を会うたび話をしてくれた。そのときの話や事象はもう百五十年も経過してしまっており、それを検証することは困難を極めたが、家終いと共にこれらのことが消え去ることを憂い書き残したものである。