目次
はじめに
2018年
2019年
2020年
2021年
2022年
2023年
2024年
2025年
前書きなど
この本は、Twitter、いわゆるSNSに書いていた日記をまとめたものだ。本来はその瞬間に起こったことや思ったことを投稿するサービスではあるが、僕はその日起きたことを寝る前にまとめて日記として投稿していた。
そして、この本に書かれた日記にはルールが一つだけ存在する。それは【Twitterの文字数の上限である140文字ピッタリで書く】というものだ。とはいえ、それは完璧な訳ではない。空白(スペース)を多く使っていたり、ほとんど記号や絵文字で構成されていたりと、自分でも曖昧なまま書いている。そもそも最初からルールを決めて書き始めたわけではなく、書けるのに書いてないのが勿体ない気がして何となくちょうどになるように埋めていただけだ。それ故に同じ言葉でも表記が不統一だったりもする。全てはいつしか僕の中に出来上がった勝手な制約のためだ。
そもそも、これは日記の本なのだろうか。自分でも分からない。たぶん日記だと思うし、ただ書きたいことを書いているだけの、意味のない文字列にも見えるかもしれない。自分が書いた言葉なのに自分が書いたと思えないものも多い。それくらい分からない。とにかく分からない。そんな分からなさを抱えたまま7年間、日記(のようなもの)を書き続けてきた。
この本の始まりとなる日記を読み返してみる。なぜこの日だったのか、なぜ書き始めたのか、なぜTwitterだったのか、ほとんど何も覚えていない。Twitterは今ではサービス名が変わっているし、文字数制限だって有料プランに入った今では140文字以上書けるようになっている。それでも何故か140文字を目指して書いてしまう。まるで取り憑かれているかのように。
話を最初の日記に戻す。2018年9月15日。そこには生活が書かれていた。淡々と出来事が羅列されていた。今となっては天気も空気も、自分が生きていたのかすら思い出せない一日の。
ソファで昼寝してたら夜になっていた。炊飯器をセットしてブックオフに行って帰ってきたらホカホカのご飯が出来ていて1個だけ余っていたミートボールで食べた。2ヶ月前から飲み残していた赤ワインをシンクに流した。もったいないから一口だけ飲んだら渋かった。洗い物をした。横になった。
正確な日記を書くことは難しいことだと思う。起こっていることを全て書き出すことはできない。私たちは思い出すことで文章を書く。一日の終わりに、頭の中で作られたその日を思い出す。巻き戻して再生する。映像を見ているように。曖昧な映像。曖昧な記憶を文字にする。言葉にする。情報にする。
朝起きてから10分間くらいのことは思い出せない。思い出せるのは、顔を洗って、トイレに行って、服を着替えて、家を出て、会社に行って、仕事をして、お昼ご飯を食べて、疲れて、家に帰って、お風呂に入って、インターネットをして寝る。それくらいだ。それだけは分かるのだ。だって、している。自分は毎日これをしている。偉い。
でも大事なことは繰り返す日常のなかのわずかな隙間だ。何があって、何を見て、何を聞いて、何を触って、何を感じて、何を思ったのかという、何ともはっきりしないものを形にしなければ僕は無になってしまいそうになる。
だから毎日のように、すくえば指の隙間からすぐにこぼれ落ちてしまう水のような記憶を。その水にきらきらと反射している光を。微かに耳へと流れ込む音の粒を。くだらない言葉の星たちを。必死にかき集めるようにして書き記した。
この本の日記は、段々と日記の”ようなもの”へと変わっていく。それが日記として正しいか正しくないかは分からない。それでも、僕だけの一日を。僕だけの言葉を僕だけの並び順でつなげて文字の塊にして、頭から放り出す。自分から離れた言葉たちがどこに向かうのかは知る由もない。勝手にどこかで好きにやっていてくれたら嬉しいと思う。
これは日記ですか?