目次
まえがき
第一章 高取焼創業の謎
一 はじめに/二 朝鮮出兵と黒田父子
三 やきもの創業の願い/四 おわりに
第二章 高取焼陶工・井土新九郎
一 はじめに/二 肥後焼と井土新九郎
三 新九郎が焼いていた窯は/四 考察
五 おわりに
第三章 渡り陶工・高原五郎七
一 はじめに/二 高原五郎七の渡り行動
三 犬鳴谷の窯跡の発掘調査/四 考察
五 おわりに
第四章 もう一人の渡り陶工・高原五郎七を追って
一 はじめに/二 筑前の磁器・須恵焼とは
三 須恵焼の陶工と渡り陶工/四 考察
五 おわりに
第五章 陶工・高原五郎七と高原焼
一 はじめに/二 高原五郎七の晩年
三 高原焼の成立とその後/四 考察
五 おわりに
第六章 シーボルト台風と陶工の渡り
一 はじめに/二 シーボルト台風の動きと被害状況
三 肥前有田の大火と生産地(窯場)/四 考察
五 おわりに
第七章 東北陸奥国に渡っていった渡り陶工・宇吉の場合
一 はじめに/二 渡りの要因としての有田の大火災
三 考察/四 おわりに
初出一覧
あとがき
前書きなど
陶芸技術は渡り職人の手で伝播していく。その先進地域は北部九州からであった。豊臣秀吉の「文禄・慶長の役」以前に、唐津地方では朝鮮人陶工がやって来て、「やきもの」が焼かれていた。領主の波多氏の管理下であった。波多氏は岸岳城の山腹に朝鮮陶工たちを集めて窯を築いた。これが唐津焼草創期の窯で、一五八〇年代から一五九〇年代にかけて、飯洞甕上・下窯、帆柱窯、皿屋窯等である。窯の構造は割竹式の登窯であった。釉調は灰釉と藁灰釉が中心で、日常雑器の茶碗・皿類が主に焼かれていた。
文禄二(一五九三)年に波多氏は朝鮮の戦場での振舞いによって、秀吉から改易を受け、関東の佐竹氏にお預けとなった。これによって保護を失った陶工たちは離散していった。これに慶長の役で連れてこられた朝鮮陶工との出合いがあった。肥前で藁灰釉の碗・皿が見られる窯は、相知町の道納屋窯、伊万里市の大川原一号窯、長崎県波佐見町の下稗木場窯で、ほかは急速に消えてしまう。逆にその頃から藁灰釉を盛んに用いる窯業地として、福岡県の上野・高取焼があり、岸岳系の陶器窯から離散した陶工の渡りの一つと考えてもよいと思われる。名もない陶工は窯場を渡って技術を伝えていくことが藁灰釉の伝播でも理解できる。
(本書「第六章 シーボルト台風と陶工の渡り」より)