目次
〈帝国のはざまを生きる〉という問い
はざまから「ナショナル」を問い直す
「結節点」としての在日コリアン
「存在しない国」と日本のはざまを生きる
中国帰国者アイデンティティは世代を越えるか
世代とアイデンティティに関する一考察
朝鮮戦争
朝鮮戦争報道と占領期日本
朝鮮戦争におけるマイノリティ兵士の従軍経験
ポストコロニアル日本語文学と朝鮮戦争
非武装中立「日本」と「朝鮮戦争」物語
引揚げの表象
安部公房『城塞』における満洲表象
終わりなき旅の物語としての引揚げ文学
湾生映画にみる植民地二世の記憶と表象
引揚げ、残留、滞留
〈はざま〉を越え、〈あいだ〉に生きる
一九五〇年代末~一九六〇年代日本における韓国人の朝鮮統一運動
戦後日本のジェンダーポリティックスと国土主義
在韓日本人女性の「遅れてきた"引揚げ"」
解放以降における在「満」/在日朝鮮人社会の跨境的諸相
帝国主義的〈境域〉としての八重山・対馬
米国人歴史家の生きた東アジアの境界領域
境域における場所の多様な物語をめぐるコンフリクト
「統治されるひとびと」のアジアという問い
近代朝鮮華僑の中華商会設立とその役割
マンチュリアにおける満洲人、旗人、満族
日本統治期台湾人家族の日本における発展とその商業ネットワーク
前書きなど
従来、〈帝国のはざまを生きる〉という視角は、帝国間の「敵対的な共犯関係という視点に象徴されるように、国際社会のパワー・ポリティクスという巨大な力のなかで生きざるをえない客体としての民衆(や小国)の苦しみを前景化しがちであった。もちろんその側面が重要であることは言うまでもない。だが、本書は、そのような〈帝国のはざま〉に規定される客体としての民衆の姿だけでなく、複数帝国のはざまでその巨大な力に翻弄されながらも、それに立ち向かい、あるいはすり抜ける主体としての民衆によって生きられる〈帝国のはざま〉という側面により注目する。
無理解や相互の齟齬は、人々のレベルだけでなく、国家としても同様であった。一九九〇年代の冷戦体制崩壊後の東アジアにおける「大東亜戦争」に関わる戦争責任や、「大日本帝国」の植民地責任をめぐる「歴史の再審」問題が多数問われながらも、日本という国家も社会も、その課題に適切に向き合うチャンスを生かしてこなかったのだ。