目次
はじめに
Ⅰ ポルトガルと出会う
国境の村で
アマランテ
アレンテージョの春
II ポルトガル、西の果てまで
ニコの食堂
セジンブラ、魚の町
アソーレス、大西洋の孤島群
1 テルセイラ島
2 サン・ミゲル島
3 フローレス島
ポルトガルを食べる
III 映画のポルトガル
トラス・オス・モンテス
ドウロ川と映画監督オリヴェイラ
世界の始まりへの旅
タブッキのリスボン、映画のリスボン
フォンタイーニャスを探して
ポルトガルのフィルムアーカイヴ
サラヴィーザ、リスボンの闇と光
ポルトガルで映画監督になる
「見る、聴く、歩く、待つ」
旅の終わりは、次の旅のはじまり──あとがきにかえて
前書きなど
ポルトガルに通うようになってもう18年がすぎた。その間に13回の旅をして、日数は220日におよぶ。行きはじめて間もないころ「どうしてポルトガルなの?」と友人たちによく尋ねられた。そのうち誰も何も尋ねなくなり、わたしのポルトガル行きは定着した。そうしていま、自分に問うてみる。どうしてポルトガルなのか。
30歳になるころまで、飛行機のような重い鉄の塊が空を飛ぶことが信じられなくて怖くて、海外旅行にまったく興味がなかった。たまたま面白半分で応募した「カップルで作る」料理コンテストで優勝した。その賞品がパリ、マドリード、ローマをまわるパッケージツアーだった。タダで行けるとなると、恐怖などはどこかに追いやって、覚悟を決めるものである。3日間のマドリードがよかった。乾いた空気と陽ざしが身体にしっくりきた。帰国して10日ほど経ったころに、日航ジャンボ機御巣鷹山墜落事故が起きた。1985年のことである。
そんな大惨事があったし、わたしの飛行機恐怖が消えたわけでもないのに、翌年からわたしは夫の福間健二とともに毎年のようにスペインを訪ねるようになった。当時は首都マドリードでさえも英語がほとんど通じなかったから、スペイン語を習いはじめた。リュックを背負い、列車より安いバスで小さな町から町を移動しながら、貧乏旅行をした。スペイン語がだいぶできるようになったので、母を連れて二人でアンダルシア地方を訪ねた。グラナダで、バスク地方から旅行に来ていたバスク人の女性二人と親しくなり、手紙を交わすようになった。そのころ「スペインのなかの異国」バスクへの関心が強くなっていたので、バスクの田舎に住むその友人をたよって2か月滞在した。1992年、スペインがEUに加盟して六年後、バルセロナでオリンピックが開催された年だった。通貨がペセタからユーロに切りかわりつつあったころだ。オリンピックとユーロを契機に、少しずつ変わっていくスペインが見え隠れしていた。
〔……〕
スペインとポルトガルのはざまでゆれながら、国境越えを3回もするという不器用な旅。それでももう思いは吹っきれていた。旅から戻ると、ポルトガルで食べた料理を納得いくまで作りつづけ、ポルトガル語の辞書を買い、当時東京に一つしかなかったポルトガルのポルトガル語(ブラジルポルトガル語ではない)の語学学校に通いはじめた。そんなわたしを見ながら、夫はこう言った。
「ヨーロッパの西の果てのポルトガルと出会うのは、きっと時間の問題だったんだよ。中心よりも端っこが好きなんだから」
なるほど、そうだったのか。
かすめたり、届きそうなところで手を引っ込めたり、遠くで聞こえていたりしたものの焦点がようやく定まり、目の前に現われた。長い年月を経て、やっと出会えたポルトガル。わたしとこの国はこういう運命だったのだと納得する。これがポルトガルとの長いつきあいのはじまりだった。
[本文より]