前書きなど
琉球舞踊とは、沖縄(琉球)で継承されている舞踊の総称で、「古典舞踊」「雑踊」「創作舞踊」に大別され、琉舞と略称される。
1、古典舞踊
一四〇四年、琉球は中国と君臣関係を結んだ。以後、琉球国王の代替わりには中国皇帝の使者が「汝を封じて国王となす」という詔勅を持って来琉し、「冊封」の式典が行われた。その使者を冊封使と言う。その折り、首里王府は「踊奉行」を設け、多くの舞踊や組踊を仕立てて使者を歓待した。また、冊封使は新国王に授ける「冠」を携えて来琉したことから、冊封使の乗る船を御冠船、その芸能を「御冠船踊」あるいは単に「御冠船」と称した。冊封使は一度に数百人が来琉し、滞在期間は四か月から八か月にも及んだ。その間、歓待の宴が七回催された。来琉は一四〇四年に始まり一八六六年まで二十二回の冊封が行われた。
古典舞踊は御冠船踊のことを指し、大きく「老人踊」「若衆踊」「女踊」「二才踊」に分けられる。基本的には男性によって、つまり女形として踊られていたが、大正以降は女性舞踊家も登場し、とりわけ戦後の女性舞踊家の台頭は目覚ましいものがある。
【老人踊】
老人踊は宴の冒頭で踊られる祝儀舞踊で、長寿と子孫繁栄を願う。翁と媼が踊る形、翁一人で踊る形、あるいは子や孫を引き連れて踊る形など幾つかの形がある。老人踊の古い形は、沖縄の各地で行われる村踊の「長者の大主」に見られる。
【若衆踊】
若衆とは元服前の貴族の少年をいう。首里城に出仕し小姓を勤めた。元服前の少年は男でも女でもなく無性とし、振り袖を着て引羽織を羽織り、赤色の足袋を履いた。髪も女の髪型と同じで簪をさし、あたかも女性と見紛うばかりに美しく飾った。江戸上り(慶賀使・謝恩使)の際には楽童子として同道し、薩摩屋敷などで踊りを披露した。若衆踊には若々しい生命力があると言われ、老人踊と同じように宴の冒頭で踊られることが多い。
【女踊】
女踊は琉球舞踊の華。紅型を着て愛・恋をテーマに優雅に舞う。華やかな中にも凛とした気高い踊りである。必要最少限の動きで最大の感銘を与える抑制のきいた踊りで、顔は能の直面と同じで、面を被っていないものの素顔がそのまま面と同じと考えられる。目の動きは大切でまばたきは勿論、流し眼などは一切戒められている。本土の古いかぶき踊りの流れを汲む。
構成は歌舞伎以前の小歌踊りの形式と同じで、「出羽」「中踊」「入羽」の三部構成を基本とする。
「出羽」は踊りの最初の部分で舞台下手から出て中央で踊る部分。「中踊」は出羽を踊り終えて次の入羽に入るまでの部分で女踊の主題をなす。「入羽」は中踊を終えて上手から下手へ踊りながら入る部分をさす。
琉球舞踊、とりわけ女踊は祭祀舞踊の影響を強く受けており、「拝み手」つまり合掌する手や「戴み手」、文字通り神から戴く手などがある。また表現の特徴に「こねり」「なより」がある。「こねり」は土を捏ねるなどの言葉と同じように手首を柔らかく回す手振りで、手を中心とした動きである。「なより」は柔らかく身体を使うことで、この二つは女踊の技法を最もよく表現する言葉であり、「摺り足」「がまく使い」と併せて女踊の大きな特色である。
【二才踊】
二才は元服した二十四、五才の青年をいう。二才踊は御冠船踊では踊られておらず、一六〇九(慶長十四)年の薩摩の琉球侵入後、慶賀使や謝恩使として江戸へ上る際や、鹿児島から来琉した在藩奉行の前で踊った。一八三二 (天保三)年、謝恩使一行が江戸の薩摩屋敷で踊った様子を描いた「琉球人舞楽御巻物」には「麾踊」「網打踊」が描かれている。
歌詞は「老人踊」「若衆踊」「女踊」が八八八六音、いわゆる「さんぱちろく」の詞形であるのに対して七・五音あるいは七・七音を繰り返し連ねる和文調で、大和(本土)の影響を受けている。衣装は黒の袷を着て裾を東からげにし、白黒の脚絆を巻いて白足袋を履く。大和・薩摩の侍風である。踊りの手には空手や棒術など武道の手が取り入れられ、歌詞に即した当て振りが散見される。