目次
まえがき
第一章 密告者
第二章 作戦に手を貸したひとたち
第三章 闇の海峡を駆ける脱走兵
第四章 スパイ天国「ニッポン」
第五章 列島千三百キロの逃亡劇
第六章 摩周湖畔に消えた米スパイ
第七章 八丈島沖に消えたドン
第八章 グエン・カオ・キ元副大統領単独インタビュー
あとがき
参考・引用文献
前書きなど
あとがき
戦争の世紀と言われた二十世紀。その戦争の中でも第一次、第二次世界大戦とともに世界の三大戦争といわれる「ベトナム戦争」ほど不可思議、かつ苛烈な戦争はなかった。第一この戦争の「大義」がなんであったのか未だに判然としない。さらにあらゆる国が陰に陽にかかわったが、どの国もこの戦いに関与した理由について、未だにはっきりした回答を持ち合わせていない。
(中略)
私は日本がこの「戦場なき戦争」に巻き込まれつつあった一九六八(昭和四十三)年に北海道の地方新聞社の記者になった。本文にもある脱走兵の輸送を手伝ったタクシー運転手は、「この事件をマスコミに提供して金にしようと思った」と話しているが、マスコミの対象となったのがその入社した新聞社であった。
実際にこの運転手とみられる男から電話があったとき、私は社内でその電話をとった先輩記者のすぐ側にいた。先輩記者が「どうもガセくさいです」とデスクに報告したのを今も覚えている。事件に関心を持ったのはそれがきっかけだった。
それから四十余年。日本の公安当局も、発表はおろかこちらの取材に対しても堅く口を閉ざし、取りつく島もなかった。
ましてや当事者であるはずのCIA、KGBが拠点にしている在日米ソ両大使館に取材を申し込んでも、「そんな話聞いたことがない」の一言で、いとも簡単に退けられた。
しかし、一九九一年、ソ連邦が崩壊、ロシア連邦となって国家戦略が変わると、ロシア政府は過去の国家機密に関する議論や決定に関し、内外の情報開示請求に応じるようになった。だが、アメリカは同様の請求に対し、その反応は頑なだった。私はひとりのジャーナリストとして、この間数度にわたって当のCIAやNCIS、ペンタゴン(米国防総省)、各基地の軍事法廷等に対し、情報開示請求を行ったが、時間の壁と記録の散逸を理由に開示請求は却下された。海軍省の法務観察室にも上訴したが棄却された。
最後に頼ったのはわが国の公安当局であったが、その公安も日米安保条約の特異規定である地位協定と外交特権によって屈辱的な“捜査”を強いられていたので、おのずと限界があった。彼らから漏れてくる情報も、確度と信用性に不安があったので、確実にウラをとる必要があった。
事件は日本が舞台だったにもかかわらず、日本を同盟国とするアメリカはわが国の捜査、公安当局にもその内容は一切明かさず、日本列島に情報工作員やスパイを放って諜報活動を展開した。ベトナム戦争は米ソ両国にとって国益とメンツを賭けた戦いであったから、両者の戦術、戦略が国際社会に大きな影響を与えたことはまぎれもない事実である。
(中略)
なお、べ平連のかつての幹部の方からは、「これは事件でない。単なる問題である」として「米兵脱走問題」との表記要望があったが、ドキュメンタリーの中身は日本を舞台にした米ソのインテリジェンスの戦いに焦点を当てたつもりなので敢えて「事件」とした。
(後略)