目次
四通の手紙
プロローグ
紅いレモン
浮標
黒の華
海の墓守
エピローグ
前書きなど
プロローグ
船山修二は1965年の生まれである。55歳になったのを機に、30年余り身をおいてきた五洋銀行を辞職しようとしていた。
「船山君、私は君を45歳で常務に抜擢した。今や副頭取の筆頭候補なのに……」
頭取室にはブラインド越しの弱い光が満ちている。ソファに身を沈めた熊谷泰三の前には辞表が置かれてある。半年前に辞意を伝えて三度目の面談だった。
頭取の襟の社章がいぶし銀の光を放っている。重い空気が二人の間に横たわって動かない。長い沈黙が続いていた。
冷徹かつワンマン頭取の熊谷は、五洋銀行の中興の祖とも目される人物だ。頭取に就任してからの業績は目覚ましいものがある。それだけに額に刻まれた皺も深い。
熊谷はタバコに火をつけて、ゆっくり立ちあがると窓際まで歩を運び、ブラインドの隙間に視線を泳がせながら白い煙を吐いた。
熊谷の船山に対する執着はまだ消えてはいない。今はまだこの駒を手放したくない。泥をかぶることも、捨て石になることもいとわない男はそうそういるものではない。熊谷にとって船山は最も信頼できる術策の手足でもあった。
だが硬い鋼はそれだけに跳ね返りもきつい。意志も強固だ。熊谷の権威をもってしても、長い時間をかけても、船山の意志が揺らぐことはなかった。やがて熊谷が折れた。
「意志は固いようだな」
「……」
「……残念だが、仕方がない。今までよく私を支えてくれた。感謝する」
熊谷は両手を伸ばして船山の手を握ると、幾重もの深い皺を寄せて、無理やりその表情を崩した。
船山は入行以来、熊谷の懐刀だった。熊谷に求められればどんな仕事もいとわなかった。その信頼は絶大だった。だから最も早く常務に抜擢されもした。言わば猛烈な企業戦士だった。仕事が生きていく糧だった。
船山は行内結婚をした妻と娘を10年前に交通事故で失っている。失ったのは妻と娘だけではなかった。無二の友人も失った。顧客の信望も失った。
強引に融資を引き剥がして回収したとき、資金繰りに行き詰まった友人は首を吊った。銀行の安全を担保するために、無二の親友を切り捨てることもいとわなかったのだ。友人が抱えている事情を考慮することもなかった。
切り捨てたのは、友人だけではない。確立していく行内での評価と引き換えに、共存共栄をうたった顧客との人間関係をも捨ててきたのだった。
何のための仕事をしているのか? その時は考えなかった。
何のための仕事をしてきたのか? 今はそのことを考え、迷い、失望している。
両親ももうこの世にはいない。兄弟姉妹もない。ふと足元を見つめたとき、いままでの生き方の意味を見失った。
船山は決断する。55歳で仕事を辞する。血を流して得た地位も関わりも、すべて捨てる。そして自分を開放する。
関わりから解放された無の時間の中で、自分自身を見つめ、いままでの失った人生を取り戻す。心身を開放して自由奔放に生きていく……。