紹介
苛烈な隔離政策下を生き抜き、今も闘い続ける人たちの記録
2001年5月23日、長い差別と苦闘の日々を経て、ハンセン病の元患者たちが国を相手にした訴訟で勝利した。「国の隔離政策は違憲」と断じた熊本地法裁判所の判決(同年5月11日)を護るための闘いを繰り広げ、この日、政府を控訴断念に追い込んだ。この訴訟では、かつて沈黙を余儀なくされていた人々が、法廷や市民の前で、また報道関係者の前で、自らが受けてきた被害の実態を自分の言葉で訴え、カメラの前に立った。病ゆえに不当な差別や人権侵害にさらされてきた人たちが勇気を出して真実を語り、闘った。
本書はそうした元患者の皆さんの協力を得て取材した映像と証言をもとに、まとめたものである。
ハンセン病訴訟の勝利は、真の解決のための第一歩であり、まだ多くの解決されなければならない課題を抱えている。元患者たちは、今も闘い続けている。(本書まえがきより)
前書きなど
「『あなた方はみな私の兄弟姉妹である』というキリストのことばが、こんなにも自分のこころに突き刺ささるとは思わなかった」というTさん(男性、東日本在住)のことばを私は忘れることができない。
少年時代、西日本の療養所へ収容され、少し遅れて母も収容された。
半世紀余を経て突然、「あなたのきょうだいが療養所でホルマリン漬けになっている」と報道関係者から告げられた。ほこりにまみれた瓶に、母の名が書いてあったことを知らされた。
知らせを受けたとき、衝撃とともに激しい怒りがこみ上げてきた、と同時に、キリストのことばが浮かんだのだという。
療養所生活で断種・堕胎の苦しみについては知っているつもりだった。だが、自分がその被害者の身内だったとは思いもよらなかった。
「自分のきょうだいとなると、やっぱり違うんだよ、怒りが。ひとのことだったら『ああそうですか、かわいそうに』で済むけれども…」とTさんは正直に語ってくれた。
「でも、そのとき『みな兄弟姉妹である』ということばを信じていた自分が、断種や堕胎で苦しんだ仲間たちのことを、それまで、ひとごとのように思っていたことに気づいたんだ」とTさんはことばを続けた。
隔離政策被害の辛酸をなめ尽くした後、人生の晩年に来て知らされた酷い事実。これをTさんは試練と受け止め、「苦しんだ仲間をひとごとのように思ってきた」と自省している。
Tさんと知り合ってから約二年後のことだった。一取材者でしかない私は、自分が当事者の痛みからいかに遠い存在なのかを改めて思い知らされたできごとだった。
辛い思いで過去を語り、カメラの前に立ってくださった方々の被害の実態や気持ちを、私はどれだけ自分のこととして真摯に受け止めることができたのだろうか。
Tさんのきょうだいになるはずだった命は、いま(二〇〇三年三月現在)も療養所で「標本」になっているはずだ。その状態がTさんを苦しめる。
療養所に残っている「胎児標本」については、その子どもたちの受けた仕打ちが「堕胎」ということばで済まされるものだったのか、「嬰児殺」ではなかったのか、の点も含めて真相究明が十分になされるか、注意して見守らなければならないと思う。また国の責任による慰霊や、適切な処置が行われる必要があると思う。
Tさんの話を聞いたのと同じころ、九州在住の元大学教授、林力さんからお便りをいただいた。林さんの父は、ハンセン病で星塚敬愛園に収容されて亡くなっている。林さんは「父からの手紙│再び『癩者』の息子として」(草風館刊)の著者でもある。
林さんは勝訴・控訴断念の後、敬愛園に暮らす八十五歳の亡父の療友に電話し、「よかったですね。裁判にも勝ったし、わずかでも賠償金も出るようになって」と話した。
受話器の向こうから、しばらくの沈黙の後、次のような答えが返ってきた。
「先生、裁判は負けるより勝った方がよか。お金はないよりあるがよか。でも、この身寄りもない、死ぬばかりの人間が、いまさら、その金を持ってどこへ行けばよかですかね。そのお金は一体、何に使えばよかですかね」。憤りに震える声だったという。
「……あらためて、この国のハンセン病の人たちへの仕打ちの残酷さ、無知であった私たちの差別への加担を思わざるを得ませんでした」と、林さんはその手紙のなかで書いている。
元患者が闘って勝ち取った熊本判決と控訴断念の意義は大きいと私は思う。
しかし、支援者も弁護士も取材者も、元患者の肉親やふるさとになりかわることはできない。だから、いまこそ、より広く深い支援者や市民との交流が求められているのではないだろうか。元患者の心に深く刻まれた傷を少しでもいやすための営みが必要だと思う。
ハンセン病の取材を進める過程で、マスコミが偏見・差別を助長し、隔離政策に加担してしまった歴史をはからずも知ってしまった。療養所の外にいて見つけられた患者を、個人名をあげて報道した記事。「また座り込み」、「もめるライ患者」などの見出しのベタ記事で片付けられている一九五三年の患者たちの闘争……。
ハンセン病を巡る過去の報道を遡ると、私たちジャーナリストは何のため、誰のために書いたり撮ったりすべきなのか、という問いを突きつけられていることに気づく。当時、記者だったら、私も同じような報道をしたのかもしれない。短い間のハンセン病取材を通じて、私は私自身の日常の仕事が絶えず厳しい歴史の検証にさらされているのだということを感じるようになった。
強制労働の作業に使う長靴の取り換えを要求しただけで、重監房に監禁される││人権侵害に加え、「言論の自由」などなかった厳しい環境の中を、ハンセン病の患者・元患者は約一世紀をかけて闘ってきた。その闘いにスポットが当たったのはほんの一瞬である。私が本書に記したのは、私なりの見方で切り取ったその一瞬の記録でしかない。