紹介
第四巻「合成化学労働者の誕生」1935〜1945年頃
▼生命を失ったかに見えた水俣工場は、どうなったか。合成化学工場として、不死烏のように、よみがえつたのである。それどころか、軍需工場として、昭和一二年頃から、新たな発展画期を迎ぇる。従業員数昭和六年約一二〇〇名、昭和一八年約四〇〇〇名。村が、われわれの故郷とすれば、工場もまた、もう一つの出発点であるに違いない。現在が、そこから生まれた場所。事実、近代的化学工業は、合成化学の成立と共に始まつたのである。これには、二つの意味がある。第一は、技術の近代性であり、第二は、労働の標準単純化である。合成化学になって初めて、肉体労働から離れ、計器監視、弁操作労働が中心になる。
▼本巻は、合成化学工場の誕生と、発展の経経を追う。新しい技術は、どこから来たのか、その思想は何か。外国から買ってきた技術により、水俣にアンモニア合成工場が建つのが、大正一五年。それから約一〇年の間、ゼロから出発して、カーバイドーアセチレン有機合成化学の開発が、自社技術で進められる。技術者にとつでは、胸躍る時代であった。しかし、その工業化は、技術的に未完成のまま行われ、労働者はたちまち、激烈な爆発事故と、深刻な蕃物暴露に遭遇する。多くの労働者が、死傷を負うか、健康を侵されるか、病死した。
▼それでは、計器監視、弁操作労働は、労働者にどういう問題を生んだか。標準単純労働自体に喜びはなかった。熟練や、勘が必要とされ、競争関係になる場合にのみ、労働者は、仕事を面白いと感じた。換言すれば、労働の喜びは、技術の未熟性の裂目にあった。
▼本巻は、1アンモニア合成工場 2酢酸合成工場 3塩化ビニール工場を対象工場として選び、技術者と労働者の双方からの聞書により、以上の問題を調べる。誰も垣間見ろことのなかった化学工場について、労働者自らが語る、ささやかな記録として−。
目次
第一部 とんでもない暴れ馬——技術と労働
一 アンモニア合成工場
輸入高圧技術とそのスタート
アンモニア合成工場の運転
二 酢酸工場
自社技術の開発と設計の教科書
アセトアルデヒド製造現場——毒・劇物曝露と運 転
酢酸製造現場——恒常的爆発と運転
アセチレン製造現場——肉体労働とアセチレンの 大爆発
三 塩化ビニールパイロット工場
日本で最初の塩化ビニール工場
塩ビバイロット工場の運転
第二部 古きよき工場——身分制と職工
一 権力の領域
ほう、砂糖が歩いて釆たよ
天皇陛下か殿さん
始業のサイレン
奥さんの便
戦前唯一のストライキ
二 自由の領域
吾が名 和楽水俣工場
俺家の係
職工の楽しみ
広がる舞台
三 朝鮮人の領域
重労働職場に朝鮮人が来た
空襲
朝鮮ピー
前書きなど
週刊読書人 1990.11.5
村が崩壊し水俣病の前兆が
アジア各地でくり返される危険性
原田正純
『聞書・水俣民衆史』がこの程、刊行が完了した。それは私にとって、待ちに待ったエキサイティングな仕事であった。よくいわれることに「水俣はチッソの城下町」「チッソは水俣の殿さん」というのがある。すなわち、チッソの存在がこれら差別の根源とする一つの表現である。また、工場内の労働者差別、朝鮮における人種差別、それがチッソのもつ独特の特異な体質のように理解されているところもある。確かに、チッソの水俣市における経済支配はのちに政治的支配となり露骨な収奪ついには精神的支配すら確立していく。工場内の人命軽視や差別が地域社会にまでもちこまれ、興南工場内における朝鮮人に対する処遇にはすざましい人権無視があったことも事実である。しかし、同時にこの聞書を読んでいくとものごとはそう単純でないこともわかる。
国家そのものの成立や近代化の流れの中で差別は変容し、重積したり、分離したりしていく様が民衆の側からみるのでよくわかる。そして差別は人間の本質かと疑いたくなる程の根の深さをもって迫ってくる。少くともチッソが差別をつくったのではない。近代化の歴史の中でチッソが差別を具象化し水俣病をおこした。
〝行方定かならず〟といわれる現代でこのような民衆の側からみることが、先ゆきに光をあてることにならないだろうか。
水俣でかつてのアジアの典型的村が崩壊し、近代化されていくとき水俣病の前兆があった。今、アジアの各地で同じことがくり返されようとしている。私たちは近代化の中でどのようにして水俣病にたどる道を歩いたか、これらの国々に正しく伝える義務があるように思う。