紹介
第一巻「明治の村」1870〜1910年頃
▼肥後と薩摩の藩境。山並が海にせまり、二筋の小河川が、申し訳なさそうに僅かな沖積地を形作っている。その谷間と平地が、水俣村である。細川藩は、藩境警備のため、多数の士族をこの小村に配備した。苛酷な年貢と士族の支配。農民は、幕藩時代長く軛につながれていた。
▼聞書は、民衆のはるかな記憶をたどり、暗雲の切れ間のような明治維新から始まる。村は、たちまち西南の役の激戦地となる。その後、この村のたどつた激動の運命を暗示するかのようにー。ともあれ、明治の水俣村は、新生の日本資本主義と共に、歩みを始める。地租−金納制に対し、自然経済下にあった農民は、途方に暮れる。作る米麦は、売るどころか食うに足りず、村の産業は、ささやかな塩田のみ。あるいは、山に道路がつき、原始林に斧が入るにつれ山仕事のみ。農民には、金の作りようがなく、博打が流行る。そこに金貸しが登場する。農民の狭隘な田畑は、たちまち取り上げられ、金貸しは地主に、農民は小作人になる。明治末には、村は疲弊の極に達し、村人は一村流亡の淵に立つ。間書は、縦糸として、その歴史の経緯を追う。
▼一方、明泊の水俣村は、草深い共同体の村であった。狐狸妖怪は人間と共存し、乞食や瞽女、浪花節語りなどが村を訪れ、疫病は村に満ちていた。女の子は、子守から娘になった。男の子は、百姓の下男から青年になり、一五才になると同時に青年組に入った。娘は形式的にこそ青年組に従属したが、実質的には自由であり、青年と対等であった。一東洋的共同体とは、われわれになつかしい言葉である。その共同体の論理は、資本主義の論理とは異なり、独自の世界を形成していた。聞書は、横糸として、人々に東洋の片隅、日本の南九州の共同体の物語を聞く。
▼話を聞いた村の古老たち一かつての村の青年と娘たちは、今日では全て鬼籍に入った。墓場寸前で、民衆が語り残した明治の村、それが本巻である。
目次
一 新しい骨組
伝承の明治維新と西郷戦争
お蔵米●米撥ね、俵撥ね、縄撥ね/米は一粒も残 らん
明治の意味●侍だらけの藩境の村/侍の世が明ら かに治まる/傘とハンコ
西郷戦争●薩軍の使役/官軍の使役/激戦地の村 /ドプロクと鉄砲/タチワケの豆
銭の序破急——金貸しが地主に
新しいお上と税金●巡査と裁判所/田圃もろうて くれろ
博打が流行る●働く気持がなくなって
金貸しが地主に●明治の一銭の重み/金貸し伊蔵 /地主の形成
小作人●銀主三分の二、小作人三分の一/年の暮
伊蔵の蔵入れ●細川さん時代さながら/えぴ飯と 蛇
平野屋の銭●金の虫干し/旦那の女道楽/平野屋 の日傭取り/恐ろしい旦那さん
もう一人の大地主——細川さん●ごないか畑/増 植/ハゼの木には指一本ふれられん/根はわが畑 に、杖はあんたの畑に
二 どん百姓
暮らし
コクリュウの鳴く村●川の股/町うちとウラ/低 い生産性と人口増加
明治の肥料●刈敷/人肥/大豆滓、イワシ肥、骨 粉/金肥
食いもん●草の葉と焼畑/カライモ/麦飯と三く ずし飯/米ン飯/イワシ/野菜と砂糖
尻と風呂●尻の穴/棒立て風呂
灯と着物●明治の明かり/布団と着物
お歯黒と出産●歯を真っ黒に染めて、眉を落とし て/子添えばあさん/産後のおかずは塩だけ
銭取り
塩浜●百姓唯一の銭取り仕事/カライモの植え道 と塩浜の干し道/炎天下の重労勧
猛焚きと塩負せ●塩焚く折は鬼/甘い水俣塩/お 得意/専売制と塩浜の廃止
山●山仕事の古い形/道と牛車、馬車/官山の伐 採/さまざまな林産物
イワシ売り●舟津/薩摩へのイワシ売り/相撲取 踊
金山の石炭運搬●日清、日露戦争と金山/ガラガ ラ ガラガラ/事故と警察
村の淫売屋
三 若っか者
オロロン コロロン
子守り●子守り唄/守り学校/半分は学校に行か ん/一年生と馬車曳き/裸で背負う意味
守り奉公●子守りの居場所——夜と朝と昼/お金 は一銭ももらえん/守り女/子は捨て散らかし
下男奉公●うちの下男/おぼえとれ/あやつはつ まらんといわれんように/よその飯
青年組
唄でいく●田植え唄/米摺り唄/米搗き唄
青年組●明日からお前も青年ぞ/青年頭/オミツ と源二郎
男宿と女宿●寝んな 寝んな/女子も男宿へ
夜這い●鉦叩きと犬と胡麻塩/来っとかい、来ん とかい/お寺参り/ほおッどうか/村の伊達男/ 女心
雨乞いと虫追いと喧嘩●天の鳴り神さま/アラア メフロウ/虫追い/喧嘩/青年のする事には咎め なし
結婚●女一人に男三人/あとは石橋 岩流し/馴 染み結婚がほとんど/親がくれんというのを/馴 染みの心残り/泣く泣く行った
四 狐火
人間と共に住むもの
狐●狐の子/天然痘と狐の屁/九段の九蔵と侍の オサンジョ/狸の方が上手
化かすものたち●村の闇/怪しい場所/回り荒神 と涙川/ガラッパ
疾病は村に満ち
悪病●病い神と川/隠して隠して/赤痢と腹薬/ 縄張ってコレラの見張り/医者の薬は焼き殺す/ 熱病と疱瘡と梅毒/大金玉とハンセン氏病
子かれ医者どん●飲んだくれて/刑務所に三ヶ月
神経どん●明治のネガ
回り来る者たち●瞽女と琵琶弾き/わしゃ、浪花 語りでござすと
勧進●勧進の宿/虚無僧とドコクさん/百姓と勧 進/勧進群像
前書きなど
毎日新聞 1990.11.3
第44回毎日出版文化賞受賞
歴史記録へ一指針
これは水俣の人たちからの聞き書き集である。編者たちにより、20年の歳月をかけてテープからおこされ、編集され、完成された。その意図は、「日本史の中でもっとも読み解かれていない」分野、すなわち歴史の中の民衆へのアプローチにある。全体を通じて、明治以降、第二次大戦に至るまでの、民衆の生活上の関心事が、浮き彫りされるようになっている。編集の縦糸の一つは、「生産」に置かれ、したがって必然的に村と工場が主題となる。
全体は5部の構成をとり、明治の村、村に工場が来た、村の崩壊、合成化学工場と職工、植民地は天国だった、との副題が付されている。ここでの工場とは、日本窒素水俣工場である。また植民地とは、当時の朝鮮のことであり、興南に作られた同会社の興南工場にも、水俣から出かけて行った人たちの姿があった。
日本の「近代化」の過程の間に、水俣にはなにが生じたのか。この書物はその問いに答え、その土地に生きた民衆の記録を聞き書きに残すことによって、民衆史の面に貴重な業績を残しただけでなく、公式には残されない、歴史的な記録のあり方を例示した点で、将来への一指針を与える。これらの点で推薦に値すると思われる。