紹介
●エセーニンからソルジェニツィンまで、著者のこよなき偏愛と葛藤の対象の作家たち。彼らは文学において自己の使命を全うしようとしたがために、必然的に権力と激しく確執を醸した人々でもあった。
●ロシアにおける文学と革命の交錯
ロシアにおいて「文学」とは単に芸術の一分野というものではなく、その内部に「哲学・思想・歴史・倫理」を包含する巨きな役割を担ってきたと言われる。そして、その「文学」は、到来した社会革命と果たしてどのように遭遇し、また遭遇せざるを得なかったか。ロシアを襲ったボリシェヴィキ革命が「文学」にもたらした軋みの諸相を個々の文学者たちの肖像を通じて、その悲劇的意味について考察する。
●作家ソルジェニーツィンとの邂逅と別れ
なかでもいわゆる「雪解け」後、「イワン・デニーソヴィチの一日」を引っ下げて登場した作家ソルジェニーツィンの存在は著者にとって特別な意味をもつ。彼の文学に共鳴し、全身で並走を続けながら、しかしやがて離反していくこととなるこの作家に関する著者の文章を、執筆年代順に集大成する。
目次
1
エセーニン—エセーニンは〈優しい〉だけ? /わたしのエセーニン /
時代の雷雲をつきつけて /愉しき訳業 /エセーニンを読む
ザミャーチン—ソビエトのアンチ・ユートピア
パステルナーク—『自伝』/「詩の自立」を貫く
サヴィンコフ(ロープシン)—テロリストの背理 /
その未来は過去なのか—現代日本のサヴィンコフ /サヴィンコフ断片 /
文学は情況から何を奪うものであるか /不信を介する信について /意志し感動する夢幻
エレンブルグ—『フリオ・フレニトの遍歴』
エフトゥシェンコ—『早すぎる自叙伝』
トヴァルドフスキー—凋落の萌しが……
グロースマン—始めに言葉ありき 言葉は密告なりき
シニャフスキー—不信のきわみに希望を…… /来たるべき中世、もうひとつの中世
ダニエル—しんがりの前衛、その自恃
アマルリーク—スターリンと切れた世代が……
クズネツォフ—書いたものは消せぬ
チュコフスキー—革命のさなかのマザー・グース
マクシーモフ—『創造の七日間』
2
ボリシェヴィズムの悶絶
ジグザグのわだちの下の「あれ」
〈屈従〉は存在の反証である
パリの亡命文学者たち
3
ロシア散文がラーゲリへと去り……
「書く」ことが「行動」に
地球の運命を問う
君は文学に拠って耐える
ソルジェニツィンのノーベル文学賞受賞
死滅のリアリティに立ち
ルカーチ先生、ソルジェニツィンを読む
4
ソルジェニツィン・ノート
1 不信の体系
2 いまは過去こそ未来
3 なぜラーゲリか
4 曲解は文学の正解である
5 方法の呪縛
6 時間とモノローグ
余白に
5
ムーディと私たちのロシア理解
〈人間の運命〉への手紙
〈囚人(ゼーク)〉同士の出会い
パリのロシア、一九七六
科学の果ての宗教
まえがき—地球に対する一票
1 再生するロシア・インテリゲンチャ
2 あらためて科学から宗教へ
3 初心・人間の威厳
記憶における「聖」と「俗」
「ソルジェニツィン・ノート」終章
ソルジェニーツィンの風化に
ラーゲリの思想にとらわれたソルジェニツィン
〈ブルータス〉ソルジェニーツィンへ
解説=内村剛介を読む
『生き急ぐ』—時代に先駆けて炸裂した一冊 鹿 島 茂
解題—陶山幾朗
表紙題字 麻田平蔵(哈爾濱学院24期)
カバーデザイン 飯島忠義
前書きなど
推薦の言葉(吉本隆明、佐藤優、沼野充義)
垣間見えた鮮やかなロシアの大地
(評論家)吉本 隆明
内村剛介は、はじめその無類の饒舌をもってロシアとロシア人について手にとるように語りうる人間として私の前に現われた。以後、ロシア文学の味読の仕方からウオッカの呑み方に至るまで、彼の文章や口舌の裂け目から、いつも新鮮な角度でロシアの大地が見えるのを感じ、おっくうな私でもそのときだけはロシアを体験したと思った。
私のような戦中派の青少年にとって、実際のロシアに対する知識としてあったのはトルストイ、ドストエフスキイ、ツルゲーネフ、チェホフのような超一流の文学者たちの作品のつまみ喰いだけと言ってよかった。太平洋戦争の敗北期にロシアと満洲国の国境線を突破してきたロシア軍の処行のうわさが伝えられたが、戦後、ロシアの強制収容所に関して書いたり語ったりしている文学者の記録について、私はもっぱら彼が記す文章から推量してきた。
内村剛介にとって十一年に及んだ抑留のロシアは、この世の地獄でありまた同時に愛すべき人間たちの住むところでもあったが、この体験をベースとした研鑽が作り上げた彼のロシア学が、ここに著作集となって私たちを啓蒙し続けてくれることを期待したい。
智の持つ力を再認識させるために
(作家・元外交官)佐藤優
内村剛介氏は、シベリアのラーゲリ(強制収容所)における体験から、ロシアをめぐる個別の現象を突き抜け、人間と宇宙の本性をつかんだ稀有の知識人である。私自身、外交官としてロシア人と対峙したときに、内村氏の『ロシア無頼』から学んだ「無法をもって法とする」というロシア人の思考をきちんと押さえておいたことがとても役に立った。
また、私が鈴木宗男疑惑で逮捕され、東京拘置所の独房で512日間生活したときも、内村氏が『生き急ぐ』で描いた獄中生活の手引きに大いに励まされた。かび臭い独房の中で、学生時代に読んだ『生き急ぐ』のことを何度も思い出し、「この状況からはい上がってきた日本の知識人がいるのだ。僕も頑張らなくては」と何度も自分に言い聞かせた。
『内村剛介著作集』刊行を歓迎する。日本の読書界に知のもつ力を再認識させるために、この著作集が一人でも多くの人に読まれることを期待する。
「見るべきほどのこと」を見た人
(ロシア・東欧文学者)沼野充義
内村剛介は私がもっとも畏怖するロシア文学者である。ソ連や共産主義といった巨大な対象を相手にして本質を見抜く眼力の鋭さと、ロシア語そのものの魂に食らいつく語学力、そしてラディカルな正論を繰り広げる気迫に満ちた日本語。そのいずれをとっても、従来の文人タイプのロシア文学者の枠をはるかに超え、私たちの一見平穏な日常を強く撃つものだ。いや、二葉亭四迷以来、ロシア文学を熱心に輸入し消費しつづけてきた近代日本にあって、内村剛介はロシアを踏まえながらロシアを超えて批評家として自立したほとんど最初のケースではないだろうか。その原点にあるのは、戦後十一年もの長きにわたったシベリアの収容所経験である。それはソ連文明という二十世紀が生んだ謎のモンスターのはらわた内臓を見極める地獄めぐりだったが、同時に限りなく懐かしい魂の根源への旅でもあった。だからこそ、彼は「見るべきほどのことは見つ」と言い放てるのだ。ソ連が崩壊し、世界が別の怪物の内臓に呑み込まれつつあるいまこそ、私たちはもう一度真剣に、この厳しくも優しい稀有の思想家の声に耳を傾けなければならない。