目次
はじめに──太田道灌が生きた時代
戦国期関東南部の地図
第一部 太田道灌と武蔵武士団
Ⅰ 江戸氏一族の盛衰――道灌はなぜ江戸に入れたのか
「江戸」の由来と近江から勧請された総鎮守・日吉社
江戸氏は隅田川の交通を熟知する「案内者」だった
東京湾岸に多い「戸」が付く地名と日比谷の入江
江戸氏の支配地周辺に蠢く新田義興の亡霊と怨霊
異母兄弟の所領争いで判明した江戸氏の財産
扇谷上杉氏が成氏与党・江戸遠江守の所領を略奪
道灌時代から商人や人々の台所として賑わった江戸
戦乱で嫡系を失い下総へ向かった江戸一門の〝落日〟
矢口・鵜ノ木光明寺一帯に伝わる六郎殿様の館跡
上杉禅秀の乱以降に激化した江戸周辺の所領争奪戦
多摩川流域の水を活用し土地開発を行った秩父一門
日蓮宗寺院に奉納の大般若経に遺る〝江戸氏の記憶〟
Ⅱ 豊島氏の戦いと城――道灌にあらがった名門一族
石神井郷で豊島氏が多くの系図を書きあげたわけ
豊島園跡に眠る豊島氏の「練馬城」を復元する
石神井城攻略─破城の痕跡でわかった道灌の〝虚偽〟
足利成氏の決断─島河原合戦から始まった享徳の乱
豊島氏の要害「平塚城」はどこにあったのか
豊島兄弟の「対の城」と激戦を展開した江古田原
江古田原古戦場の周辺に点在する首塚・豊島塚
戦国末期も豊島郡域に繁延した豊島氏の子孫たち
Ⅲ 道灌を支えた武士団と反旗を翻す長尾景春
長尾景春と伯父の景忠が武蔵の所領支配で争う
中小武士団が現体制を見限り、景春に命運を託したわけ
戦国乱世へ橋渡しをした〝裏方の実力者〟・景春
岩付・江戸・河越の築城と堀越公方足利政知の元服
両上杉氏が築いた最大の駐屯地・五十子陣の構造と攻防
覇権をめぐって両陣営に分かれた国衆たちの虚々実々
一貫して古河公方を支えた古参国衆の安保一族
長井城攻めで数百人の犠牲を出した道灌と景春の憂鬱
江戸城に足利成氏の弟を招き治まらぬ戦乱を嘆いた道灌
道灌を支えた渋川左衛門佐とその家臣板倉美濃守の功績
吉良殿様と呼ばれた吉良成高と禅僧・万里集九の交流
第二部 太田道灌と相模武士団
Ⅰ 矢野・小沢・溝呂木ら在地武士団の実態
権現山で伊勢宗瑞と戦った矢野氏は神奈川の〝有徳人〟
道灌訪問のおり神奈川の風情を漢詩に認めた万里集九
小机城将・矢野氏と神奈川湊に入った廻船「日吉新造」
八丈島と神奈川を結ぶ湊や宿で活躍する流通商人たち
二つの小沢城(おざわ・こさわ)をめぐる国衆たちの動向
景春与党の溝呂木・越後・金子氏の本拠地はどこか
Ⅱ 伊勢宗瑞の侵攻と名族三浦氏の滅亡と伝承
三浦道香が自害した地で今も供養を続ける家臣の末裔
伊勢神宮の大庭御厨所管責任者だった道灌の職権
伊勢宗瑞の猛攻で落ちた大庭城址の遺構が語るもの
在りし日の住吉城址と三浦道寸の向城を訪ねて
八丈島の支配をめぐり代理戦争を行った宗瑞と道寸
道寸の奮戦及ばず三崎で自害、名門三浦氏が滅亡
滅亡した三浦氏の怨念とされる〝北条滅亡〟
Ⅲ 西相模の雄・大森氏の盛衰と痕跡
公方足利持氏を助けた大森一族と箱根権現別当
ゆめ、まぼろしとなった〝伊豆国守護・大森氏〟
足利成氏の登場と結城城で討ち死にした大森六郎
鎌倉府崩壊に一役買った有徳人や財産家たち
小田原で一族内紛の末、実頼系が実権を掌握する
大森氏の記憶を色濃く現代に伝える岩原城跡
大森氏と共に籠城した道寸と宗瑞の弟・弥次郎
Ⅳ 道灌を殺害した上杉定正と糟谷館を検証する
道灌誅殺は上杉定正の養継嗣・朝良の所業か
道灌が「当方滅亡」と叫び息絶えた館の伝承地
発掘調査の進展で確実性を帯びた糟屋館=丸山城
上杉定正の頓死で再び大混乱と戦禍が関東を襲う
両上杉氏を見限り京との御融和を成し遂げた成氏
第三部 道灌以後も栄えた江戸湾の“湊”
Ⅰ 流通の大動脈だった江戸内海と往来
中世江戸の起点だった浅草の賑わいと諸将の参詣
神事の禊ぎを行えるほど神聖だった品川浜の海水
中世品川の大井地区に仏教寺院が密集するわけ
品川湊・神奈川湊と伊勢大湊を結ぶ水手たちの実態
神奈川湊の始まりは人と宿屋が密集した帷子河口
〝海面低下〟と〝享徳の乱〟で衰退した六浦の湊
品川湊を拓いた水の武士団、大井・品川一族
北条氏康から須賀湊の代官を任された清田氏
下総と伊豆をつなぐ走湯山所属の燈油料船とは
Ⅱ 湊を活用して富を集めた有力者たち
豊臣秀吉から得た禁制で水運を職能にした蒔田氏
道灌以後、後北条氏へと続く六浦の海運有力者の伝統
伊勢湾と江戸湾との海上交通網を差配した鈴木道胤
東海道の宿場に誕生した新有徳人の宇田川氏と鳥海氏
北条氏照に代官・有徳人らを訴えた品川の百姓たち
鈴木道胤の経済力と足利成氏重臣の簗田満助
あとがき /参考文献 /関係年表