目次
目次
戦国時代備前騒乱の歴史を雑学的に考証した!?
―金川城主松田元成から岡山城主宇喜多直家、秀家まで―
牛窓沖前島に放置された大坂城の残石
盟友故福原謙治氏の遺稿集『林住の記』を読む
市立吉備商業学校創立者井尻艶太 商業教育にささげた苦難の生涯
瀬戸内市で開かれた「隠﨑隆一展」に想う
岡山生まれ〝虎大尽〟山本唯三郎の栄枯盛衰
あとがきに代えて
前書きなど
あとがきに代えて
「おかやま雑学ノート」19集をやっと刊行できた。
この1年も新型ウイルスコロナまん延防止のため、不要不急の外出防止の呼びかけが続いた。八十路後半の老人が取材に走り回るにはかなりの勇気が必要、 “書くぞ”というモチベーションが起こらない日々だった。高齢による脳の硬直化か?書いた原稿も淡泊、執拗な追求心が消え失せていた。
私は昨年春からオンボロマイカーで備前平野の古城跡を尋ね回った。中世末期から戦国時代にかけての岡山県は、ご多分に漏れず、守護、国人入り乱れて抗争した群雄割拠の時代。周辺諸勢力の動向も視野に入れて骨肉相食(は)む戦国絵図を雑学的に描く取材を始めた。だが当事者の生の意見は聞けず、メールに頼る取材が多かった。県立図書館にもこれまで以上に足を運んで資料を漁ったが、隔靴掻痒(かっかそうよう)の感は否めなかった。夏は特に猛暑、体力の衰えとコロナ禍防止もあり取材は中断した。
怠惰に過ごしていたわが身を奮い立たせたのは、この19集に収録した盟友福原謙治氏の『林住の記』である。余命150日と悟りながら病床で書き続けた多様な論考には、新聞人の魂の叫びがこもっていた。所感を一気に書きあげ、福原氏が別世界のどこかで読んでいるかも・・と思うと、不思議なことに私自身のエンジンも再起動、最後の宇喜多直家を書き上げたのは晩秋だった。
19集には過去の原稿や体験を異なった視点で加筆したものもあるが、今回ほど苦労した取材はなかった。今年9月は米寿、これを機に『おかやま雑学ノート』の執筆を断念することにした。リタイア後20年間の生きがいだっただけに残念な思いもあるが、現在は「老兵は静かに消え去る」の心境だ。
思い起こせば平成15(2003)年4月、縁あってエフエムくらしき(倉敷市白楽町)で毎週1回、同局の名パーソナリテイ・小野須磨子さんのトーク番組に出演。ボランティアとして「聴いてちょっとためになる話」をナマ放送で始めた。リスナーは主婦層が多かった。幸い好評で半年ごとにトークを小冊子に編集、希望者に無料配布した。2年後、吉備人出版(岡山市北区)山川隆之社長の勧めで放送内容を『おかやま雑学ノート』として再編集、単行本として店頭にも並ぶようになった。
一方同19(2007)年4月から岡山エフエム放送(岡山市表町)でも毎週金曜午前9時5分から15分間、「赤井克己の岡山歴史ノート」のタイトルで全県下向けに放送(録音)を始めた。マイカー通勤者対象の時間帯だけに反応は大きかった。「放送を聞いたぞ」「面白い内容だ」などの声が局だけでなく、私自身にも多数寄せられた。特に岡山市内では、ビルの林立が既存ラジオ局の中波を乱すのか、短波で音質の良いエフエム放送のリスナーが多いことを実感した。
エフエムくらしきでのトークは毎週1回、15年間マイカーで往復50㌔通った。幸い無事故無違反、免許は今もゴールドだが、高齢も考慮して同30(2018)年3月末で放送を辞退した。岡山エフエムでも13年続けたが、令和2(2020)年3月85歳を機に退いた。両局合わせると放送回数は1400回を超す。
ラジオ放送辞退後も原稿は書いていたが、ついに力尽きた。当初『雑学ノート』を19冊も発行するとは思いもしなかった。吉備人出版山川社長のご尽力に感謝するとともに、長年のご愛読にも心からお礼申し上げます。