目次
目 次
序章 歩くに先立って
1 神話的説明 9
2 三つのテーマ 13
3 梛神社 17
4 梛八幡神社 21
5 祝田神社 25
揖保川から矢田川を歩く
一日目 姫路市—太子町—御津町
1 揖保川に見える 33
2 古代の地名と遺称地 37
3 山の政治的意味 41
4 「高みに登って見る」こと 45
5 宇須伎津 49
二日目 御津町—揖保川町—龍野市—新宮町
1 夜比良神社から粒丘へ 55
2 揖保の名の由来 59
3 客神、天日槍命 63
4 息長帯比売命と品太天皇 67
5 萩原の里 71
三日目 新宮町—山崎町—一宮町
1 雁・猿・鹿 77
2 宇原、家氏、平見、川戸 81
3 大倭物代主神社 85
4 五十波の村 89
5 伊和神社 93
四日目 一宮町—波賀町—大屋町
1 「うるか」 99
2 許乃波奈佐久夜比売命 103
3 三方 106
4 皆木の邇志神社 111
5 若杉峠 115
五日目 大屋町—八鹿町—関宮町
1 歩きへのこだわり 121
2 御井神社 125
3 坂蓋神社 129
4 男坂神社と琴引山 133
5 大與比神社 137
六日目 関宮町—村岡町
1 関神社 143
2 井上神社 148
3 豊かさとは何か 151
4 高坂神社と等余神社 155
5 志都美神社 159
七日目 村岡町—香住町
1 空山と蘇武岳 165
2 続・空山と蘇武岳 169
3 むらおか 173
4 黒野神社、伊曽布神社 177
5 矢田川 181
6 椋橋神社 185
歩き足し 一日目 庭田神社から御形神社へ 191
歩き足し 二日目 波加の村 197
歩き足し 三日目 因幡路へ 203
前書きなど
十年前の春、兵庫県の揖保川の河口から矢田川の河口まで歩いた。すぐにその紀行文を「揖保川から矢田川を歩く」と題して、個人通信『六塵舎通信』(二〇一号・一九九四年三月一八日〜二四四号・一九九四年五月三〇日)に載せていた。本書はそれを一冊の本にしたものである。
本にするにあたり読み返してみると、わずか十年しか経っていないのに、意味不明のところが多々出てきた。個人的な印象に縁り掛かって、説明の足りない文章になっていた、気づいた限り補ったが、はたしてこの地を訪れたことのない方にも読んでいただけるものになったかどうか。不安である。
旅の楽しみは何らかの意味で未知の土地を訪れるところにある。旅は、いつでも新しい風物との出会いに充ちている。その地に住んでいる人々やその地についてよく知っている人々にとってはごくありふれたことでも、はじめて訪れる者には新鮮である。時に旅人の無知をさらけ出したり、住民にとっては迷惑な印象を抱いてひんしゅくを買うこともある。
にもかかわらず、気ままな旅には、学術調査や研究旅行にはない魅力がある。それは旅人の主観にそって印象を膨らませることができるからである。旅先の土地は、単なる客体としてあるのではなく、かれの期待や思いこみを膨らませる機会とも素材ともなるのである。その結果、かれはしばしばその土地にかれ独特の名前をつけ、物語を作り、世界を造ってゆくのである。
そんな気ままな旅がしてみたいと思うようになったのは、じつは大汝命すなわち大国主命と小比古名命の話に触れたときだ。
大国主と小比古名は、土を運んで国造りに励んでいた。単に運ぶだけでは退屈である。小比古名は土を担いで遠く行くのと屎をしないで遠く行くのとではどちらが遠くまで行けるかと持ちかけた。大国主はいとも簡単に屎をしないで行く方だと答えた。小比古名は土を運ぶ方をとった。国造りはにわかに楽しい仕事になったであろう。
かなり歩いてから、大国主がもう我慢できないといって屎をした。小比古名も笑いながら土を岡に放り出した。それでその岡を「はにおか」と呼ぶようになったという。また大国主がした屎を笹が弾いて衣についたので、その村を「はじかの村」と呼ぶようになったという。その岡には、小比古名が放り出した土と大国主がした屎が石となって今もあるということだ。
二神が歩かれる以前も、その地は岡であり、また村であったろう。しかしまだ名前のないただの岡であり、ただの村であったに違いない。小比古名が土を放り出すことによって、特別の岡として「はにおか」と呼ばれるようになった。また大国主が屎をするまではただ笹が広がっているだけの村だったが、笹が弾いた屎が衣につくことによってその村は「はじかの村」と呼ばれるようになったのである。
地名はきわめて細部に誰人かの何らかの行為を介してつけられているのである。この場合では、国造りする二神の我慢比べがあった。もしかれらの我慢比べがなければただの岡、ただの村のままであっただろう。そこが「はにおか」あるいは「はじかの村」と呼ばれるようになったのは、行為者である二神とかれらの我慢比べが笹の生えたある村のある岡であったからである。
一まとまりの物語には、かならずその細部が相互に意味づけられ構造的に組織された世界がある。つまり何であれ細部が細部として語られる時には、それを全体の中の細部とするような世界があるのである。あえて言えば、地名はいつでも物語られるだけの背景をもっており、そして地名をつけられた諸々のものは、何らかの世界観のもとで意味づけられた全体として一つの世界を造っているとしてよいであろう。「はにおか」あるいは「はじかの村」はただの地名ではなく、国造りする二神の我慢比べの物語が展開される世界の中の岡であり村であるということである。
端的に言えば、一般的なただの岡、ただの村から、いわゆる地名のついた岡あるいは村になるときには、何らかの物語があり、物語の繰り広げられる世界があるとしてよいであろう。「はにおか」あるいは「はじかの村」について言えば、岡の上の石と笹の生える村、国造りする大国主と小比古名、そして我慢比べを核として細部が相互にしかも構造的に意味づけられ、全体としてひとつの世界が出現しているのである。
翻って考えれば、山を単なる一般的な山としてみるのでなく、何らかの名前のついた山として見る時には、その山に名前をつけた人とつけるに至った行為とを巻き込んだ何らかの物語があり、一つの世界があると考えることもできるであろう。
すると歩く場合でも、ただ山を見るのではなく、名前の付けられた山としてみるならば、楽しみは広がり深まるのではないだろうか。名前のついた山を、一つの細部としてその土地全体に関連付けて、物語を読み解くように歩き、そこに息づく世界を感得する……そんな旅がしてみたい。国造りする大国主と小比古名の話を知ってから三十五年、小暇を得、歩く機会が与えられた。
揖保川と矢田川の流域は、そうした希望にぴったりの土地であった。『風土記』に載っている地名を千数百年後の今日に伝え、また九二七年撰上の『延喜式』に載る古社を祭っている。現代の人々がまったく同じ世界のもとで生きているとは考えられないとしても、ともかくもそんなにも古い地名や古い神社を今日に伝えていることは驚きである。それらを訪ねながら流れに沿って歩き、人々がどのような思いを抱きながら生きていたであろうかと想像を膨らますことは、漫然と歩くよりはるかに楽しいであろう。そんな気持ちがつのって、瀬戸内海から日本海まで歩いた。一冊の本にしたものの意に満たないこと甚だしい。次の機会を期したい。