紹介
「かつて、中村草田男は「その作品は、ことごとく明るさのみなぎり渡った平和な雰囲気と、無垢なつつましい抒情味とによって成り立っている」と、芝不器男の俳句について語っている。青春性、一種の童貞性に統べられた世界に注目して愛惜し、俳壇における不器男の位置を文壇の堀辰雄や詩壇の立原道造になぞらえた。感性を昇華させた抒情性が、しなやかに撓むつよさに支えられている堀や立原への相似を不器男に見出してのことであろう。
不器男は短い生涯のほとんどを愛媛県南予地方にある山峡の郷里で過ごした。一人の人間の限られた人生の日々がそこにある。しかし俳句と出会い、句の創作という行為に関わって己や対象に対峙したとき、彼の存在を超えた何かが、その感受性にこだましている。不器男の思いを超えた、予想もしない何かに助けられ、一瞬の生の輝きが生まれたのだ。詩の生成、表現や創造の根源を逃さずあやまたず捉えたこの青年の暢びやかな筆致は、いったい何によって導かれたのだろうか。」(本文より)
昭和初頭の俳壇に彗星のような輝きを放ちつつ、わずか26歳と10カ月で、この世を駆けぬけていった不器男は、昭和5年(1929)2月24日に永眠。この稀なる才能は、その光芒とともに、短すぎる生を閉じてしまった。
その生涯を辿り、不器男の俳句のみずみずしい抒情の源泉を探る。
また、代表的百句を抽出、その一句一句に仔細な吟味・鑑賞をほどこし、不器男の世界を逍遙する。
目次
<芝不器男>
蚕の家------------------------冨と知の集積
揺籃---------------------------山峡、川筋の里で
ロゴス胚胎------------------松山高等学校時代
モラトリアム-----------------大正12~13年
俳人不器男誕生へ-------大正14年
「天の川」-------------------不器男時代の幕開け
草枕--------------------------万葉語の駆使
「ホトトギス」----------------虚子の鑑賞
孩児独語--------------------俳句と短歌
大内の家--------------------子規忌とも父には告げなく
夭折---------------------------かなしき翅
<愛誦百句逍遙>
前書きなど
芝不器男の感受性は、いつも揺れている。
水面に映った光の影のようだ。
永遠と一瞬、静と動、実在と影、前景と遠景、江戸と近代 、主観と客観
目に見える世界と目に見えない世界、遙かなるものへの憧憬と鬼北の身近な世界
対立するもの、正反対のもの、相反する概念を見据える「まなざし」を持っていた。そこでとらえたものを、己の俳句のなかに生かしたい、共存させたいと思っていた。
人間存在を超えたもの、遙かなるものに対して、ひざまずくような心を持って向き合っている。
それは単なる憧憬にとどまらない。己は無限に流れる時間のいまという一断面ではげしく洗われている。ここに在りながら、日常性や現実性を超えたものに否応なく惹かれる一種の超越的、形而上的な資質に根ざしていた。
一方で、遙かな存在の広がりのなかに自分を置いた孤独を抱えていた。しかし、不器男を孤独にしているものは、彼が心に深く抱く絶対の真実というようなものではない。むしろ、それを抱きとめる日常、鬼北の峡の日々、不器男が身を置く日常生活の揺るがざるリアリティゆえの孤独といえよう。それは、日常に帰属せざるを得ないがために抱えるものである。峡の人であるゆえに測りしれなく孤独だ。それがアンニュイに染められもする。不器男は、峡の、ストレンジャーと言えよう。
遙かなものを遠く無限に望みながら、一方で峡の小さな世界でのつつましい人間の営みにまなざしを届かせ、少しも身構えたところのない流露を、俳句という詩の器に盛り続けた。定型の枷にあるがゆえの自由を存分に発揮する表現力が備わっていた。
その揺れの振幅は、生涯の最期の日々に、〈生〉と〈死〉の間に至り、新たな光芒を発しつつ、不器男は私たちの前から去って行った。
(最終章「夭折-かなしき翅」より)