前書きなど
おわりに
世知辛い世の中で、メディア関係者が「水平化の大鎌」(キルケゴール)をふるいつづけるものだから、表現者の人格におけるインテグリティ(総合性、一貫性、誠実性)がなかなか表現されない傾きにある。つまり、話題が断片化され論述が専門化され、しかもそれらが世論の動向に逆らうことのないように色付けされ配置されるのである。それは、もう避けようのない成り行きだ。
で、この成り行きに残念を覚えるものは、社交の場に出かけ、そこでのフェイス・トゥ・フェイスの接触を通じて、互いの全人的な表現の交換を楽しもうとする。ところが、社交の場も世知辛く、一つに、黄色人種におけるアルコール分解酵素の不足のせいもあって、すぐに酔っ払う者が多く、会話がすぐ滞ってしまう。二つに、ストレス社会から身を守るためであろう、仲間内で集まることが多く、まろうど(客)からの刺激が乏しいものだから、話が閉じられがちとなる。
そんなわけで、ずいぶん前から私は、TVという最も俗悪とみなされている場所における異分野の客たちとの議論を、たとえそれが雑駁に流れようとも、ただし司会者が阿呆ではないという条件付きで、大事なものとみなしてきた。一つに、映像のおかげで身体言語を駆使でき、そのおかげで、その人の思想にとっての母体となっているセンチメンツ(根本感情)がおのずと表現される。二つに、不特定多数の視聴者が観ていることを前提にしているので、表現が専門知のなかに閉塞されないですむ。三つに、客同士の会話にあってはマナーやエチケットが守られることが多く、その結果、表現が過剰な自己主張に特有の矯激さを免れることができる。人間精神のウルフェノメノン(原現象)ともいうべき会話、それがテレ(遠方)からのヴィジョン(映像)によって可能になるというのは、文明の皮肉には違いない。しかしその皮肉を愉快とみなすのでなければ、現代人は世知にまみれて窒息してしまうのではないか。
本書に収録された座談の数々は、司会役を買ってくれた佐高信氏の巧みな手綱さばきと、出席された稀人諸氏のサウンド(健全)なサウンド(音)の組み立てから成る妙なる話術の然らしむるところ、上出来の社交となりえたと思う。出席者の皆様、そしてTVの撮影および本書の編集に携われた方々に、深く御礼申し上げる。
平成二十四年六月二十六日 西部 邁