前書きなど
ベトナムから消えた「コニャックソーダ」
これまでの人生、生活環境や年齢の違いに応じて、酒の呑み方もずいぶんと変わってきている。ベトナムで暮らした頃がサイゴン・戦場・メコンデルタの旅など、人生体験が最も充実していたと思っている。それだけに酒もたくさん呑んだ。
アメリカ軍基地内のバーには、無税で各種の洋酒があった。サイゴン(現ホーチミン市)の街角にはPX(基地内売店)から闇で流れた酒がずらりと並んでいた。安かったので貧乏カメラマンの私でも、日本では見たこともないような高級酒を買うことができたが、闇市の酒は慎重に選ばないとお茶などで色を着けたニセモノを掴まされることがあった。容器の底から注射器のようなものでホンモノと入れ替えるということだった。
ベトナムで「コニャックソーダ」の味を知った。レストランに行って「コニャックソーダ」を注文すると、ウエイターがビールの小ジョッキくらいのグラスに大きな氷を入れ、ブランデーを景気よくドクドクと注ぐ。そしてソーダの瓶を置いていく。後は自分で好きな量だけソーダを入れ、ブランデーの香りが周囲に漂うくらい思い切り泡を立ててかき回して呑むのである。フランスのインドシナ統治時代の名残で、カンボジア、ラオスのレストランでも「コニャックソーダ」を呑むことができた。
一週間から一〇日間の従軍が終わってサイゴンの下宿に戻ると、まず泥まみれになった軍服を脱ぎ、水を浴びてから、冷蔵庫の中からよく冷えた缶ビールを取り出して一気に呑み干す。それからレコードを聴きながら、「コニャックソーダ」を呑み続ける。
この時間が好きだった。戦場では歩き続け、時には地雷や銃弾に怯え、雨の降る中で野営する。厳しい状況の従軍であればあるほど、サイゴンに帰った時の「コニャックソーダ」が旨かった。もし、この「コニャックソーダ」の時間がなかったら、四年間も従軍生活を続けられたかどうか分からない。良い酒と良い音楽で身体がしびれるような時間だった。
今、ホーチミン市内では私が好きだった「コニャックソーダ」を呑むことはできない。ベトナム戦争当時のサイゴンには、植民地時代からのフランス人や華僑の経営する小さなレストランがあちこちにあった。その多くが、南北統一後、外国人追放や華僑の国外退去などで店を閉めてしまった。現在、ベトナムではドイモイ政策が取られて、ホーチミン市内でも新規開店のレストランが各所に誕生しているが、それらの店で「コニャックソーダ」を注文しても、ウエイターには通じない。ブランデーをソーダで割るのだと説明すると、出てくるのは小さなグラスに細かい氷が入った「ブランデーソーダ」。
私の求めている「コニャックソーダ」は大きなグラスにそれがいっぱいになるくらいの大きな氷が一個入っていなくてはならないのだ。「コニャックソーダ」の味にこだわりを感じていたので、戦時中に何度も通い、今でも同じ場所で営業している三つの店を回ったが、出てきたのは「ブランデーソーダ」であった。経営者も従業員も変わっていたのだ。しかたがないので、ずっと昔にサイゴンの市場で買ってきた大きなグラス(今では我が家の宝となっている)で「コニャックソーダ」を作ってみるが、日本にいては当時の感動にはほど遠い。日本では、ブランデーは手のひらでグラスを温めて香りを楽しみながら呑むものだと、「コニャックソーダ」は邪道扱いである。少し寂しい思いをしていたら、イギリスの元首相、ウィンストン・チャーチルのお父さんはウイスキーなんか呑まず、ブランデーのソーダ割りばかり呑んでいたと知って、嬉しくなってしまった。
一九七五年のサイゴン陥落以降、「コニャックソーダ」を呑む客も作る経営者もいなくなり、「コニャックソーダ」は「サイゴン市」と共にベトナムから消えてしまったのである。