前書きなど
はじめに
壮大な決意で温度計を手にして家を出ると、外は雪でした。舞い散る春の雪を眺めながら、わたしは、「今からやらねば間に合わない」と海に向かって行きました。それは、1978年3月23日、25歳の時の事でした。
北海道の日本海側の港町・岩内町に生まれ育ったわたしの周りには、いつも「海」がありました。小さい頃から海辺で遊んでいましたし、魚屋で働いている父が帰ってくると家中が魚臭くなり、食事の度に魚がどっさりと出ます。そして、漁師の伯父達が家に出入りし、出漁を見送るという具合ですから、わたしのそばにはいつも海がありました。
やがて、地元の高校を卒業して、東海大学工学部電気科に進学しました。2年生までは教養過程として札幌校舎で過ごしました。1974年、東京の本校に通っていた21歳の時、わたしは原発の本をはじめて読みました。それでようやく、地元の漁師が「原発の温排水で海がダメになる」と原発に反対している意味がわかりかけてきました。夏休みに北海道へ帰り、港に行ってみると、故郷の海はいつもと同じように光り輝いています。わたしは、このまま故郷の海が変わることなくあり続けてほしいと、祈るような気持ちで海を眺めていました。
1977年、大学を中退して24歳で故郷に帰ると、わたしは原発から出される温排水について勉強をはじめました。
原発は、ウランの熱で水蒸気を作り、水蒸気の力で歯車のようなタービンを回して電気を作る仕組みになっています。水蒸気を水に戻す機械を復水器といいますが、タービンを回し終えた水蒸気は、この復水器に導かれていきます。水蒸気は、海水によって冷やされて水(30℃)に戻り、再び原発の中を循環していきます。一方、水蒸気を冷却するために取り込まれた海水は、復水器を通過して行く間に水蒸気によって温められ7℃ほど高くなり、海へ排水されます。排水された温かい海水のことを温排水と言います。
温排水にかかわる問題はたくさんあります。海水とともに吸い込まれたプランクトンや魚の卵や稚魚は、復水器を通る間に温度ショックや機械的なショックで半数が死滅すると言われています。そして、温排水が大量に排水されることで沿岸の水温が上昇し、漁業に被害を与える可能性が高く、また潮の流れをも変える恐れがあります。さらには温排水の持つ膨大な熱が地域気象にも何らかの影響を与える可能性があるのです。温排水には、微量ながら放射能や一般の工場と同じく産業廃水も含まれています。
このように温排水の問題の根深さを知れば知るほど、故郷の海を心配する気持ちは、なんとしてでも原発から海を守らなければならないという思いに変わっていきました。しかし、海を守るといっても、どうすればいいのか具体的な方法となると、見当もつきませんでした。それでもずっと考え続けていました。そして、故郷に戻ってから一年程過ぎた頃です。海を守るためには少なくとも温排水の影響を調べなければならないと考え、水温を観測することを思いついたのです。
「誰も海への影響を調べようとはしていない。それなら自分がやればいいのだ。これから30年間、一人で海に通ってみせる」
そう思い立ちました。けれども、あまりにも目標は大きすぎて「無理だ。一人で何ができる」という諦めがわき上がってきました。けれども、自分なりに海を見守る方法を見つけた以上、不可能と思いながらも目的に向かっていくしかありません。
わたしは、運転前と運転後の水温を比較することで温排水の影響を明らかにすることができると考えました。そのためには、運転される前の水温がどのような状態であるのかを事前に十分に観測しておかなければなりません。
天気予報では平年並という言い方をしますが、これは30年間の平均値を言います。気象では30年を一つの基準と考えているのです。運転前の水温の基準を求めるには、気象にならって本来なら原発が運転される30年前から水温を観測することが望まれます。水温の変化を把握するのには最低でもその位かかるのではと思いました。
1978年冬の時点では、地元の漁協の反対によって、原発建設は延び延びとなっていました。このまま延期が続き最終的に中止となることを願っていましたが、情勢が変わり原発が数年以内に着工されるかもしれません。しかし、着工されてから水温観測をはじめたのではもう遅いのです。先のことはわからなくとも、海を守る準備をはじめるべきだと思いました。
こうして、温度計を持ってはじめて海と向かい合った日から25年という年月が過ぎ、今年でわたしは50歳となりました。