紹介
「小説は場所への興味から始まる」吉田修一 (「波」2019年9月号より)
気鋭の批評家、酒井信(明治大准教授)が〝土地〟から小説を読み解くブックガイド。
農村、漁村、下町や都心部、寂れゆく地方都市、郊外のベッドタウン…。小説には、土地から立ち上がるもの、逆に立ち上がらなくなったものが反映されている。作家の出身地、小説の舞台、インタビューなどをたどりながら、作品を批評。通読すれば現代社会のかたちが見えてくる。
主要文学賞、必読作品、読書感想文向け作品などの分類もあり、高校、大学生向けのブックガイドとしても活用可能。
中上健次、カズオ・イシグロ、村上春樹、角田光代、伊坂幸太郎、東野圭吾、三浦しをん、西村賢太、青来有一、吉田修一、桜木紫乃…
純文学からエンタメ小説のジャンル問わず、1977年から2021年の180編を収録。舞台は全47都道府県に及ぶ。
目次
5P はじめに
16P 北海道・東北 ほか、関東・中部 地図
<北海道>
20P 北海道函館市/ 佐藤泰志『そこのみにて光輝く』
22P 北海道函館市/ 佐藤泰志『海炭市叙景』
24P 北海道旭川市/ 桜庭一樹『少女七竈と七人の可愛そうな大人』
26P 北海道釧路市/ 桜木紫乃『ラブレス』
28P 北海道釧路市/ 桜木紫乃『ホテルローヤル』
30P 北海道留萌市/ 桜木紫乃『起終点駅 ターミナル』
32P 北海道紋別市/ 桜庭一樹『私の男』
34P 北海道美深町/ 村上春樹『羊をめぐる冒険』
36P 北海道新得町/ 宮下奈都『羊と鋼の森』
<東北>
40P 青森県弘前市/ 森沢明夫『津軽百年食堂』
42P 岩手県盛岡市/ 沼田真佑『影裏』
44P 岩手県釜石市/ 馳星周『少年と犬』
46P 宮城県仙台市/ 伊坂幸太郎『重力ピエロ』
48P 宮城県仙台市/ 伊坂幸太郎『ゴールデンスランバー』
50P 宮城県名取市/ 佐伯一麦『還れぬ家』
52P 宮城県牡鹿郡女川町/ 西加奈子『漁港の肉子ちゃん』
54P 秋田県北秋田市/ 熊谷達也『邂逅の森』
56P 秋田県湯沢市/ 綿矢りさ『生のみ生のままで』
58P 秋田県大仙市/ 奥田英朗『オリンピックの身代金』
60P 山形県東根市/ 阿部和重『インディヴィジュアル・プロジェクション』
62P 山形県東根市/ 阿部和重『シンセミア』
64P 福島県南相馬市/ 柳美里『JR上野駅公園口』
66P 福島県双葉郡/ 三崎亜記『失われた町』
68P 福島県双葉郡/ 高橋源一郎『恋する原発』
70P 福島県双葉郡/ 桐野夏生『バラカ』
<関東>
74P 茨城県水戸市/ 恩田陸『夜のピクニック』
76P 茨城県高萩市/ 江國香織『神様のボート』
78P 茨城県鹿嶋市/ 乗代雄介『旅する練習』
80P 栃木県宇都宮市/ 宮部みゆき『火車』
82P 栃木県足利市/ 吉田修一『犯罪小説集』
84P 栃木県那須郡/ 米澤穂信『満願』
86P 群馬県吾妻郡/ 長嶋有『ジャージの二人』
88P 埼玉県所沢市/ 篠田節子『夏の災厄』
90P 埼玉県越谷市/ 中村文則『去年の冬、きみと別れ』
92P 埼玉県朝霞市/ 朝倉かすみ『平場の月』
94P 埼玉県志木市/ 佐川光晴『生活の設計』
96P 千葉県木更津市/ 奥泉光『桑潟幸一准教授のスタイリッシュな生活』
98P 千葉県木更津市/ 奥泉光
『黄色い水着の謎 桑潟幸一准教授のスタイリッシュな生活2』
<中部>
102P 新潟県新潟市/ 桜木紫乃『それを愛とは呼ばず』
104P 新潟県佐渡市/ 長嶋有『佐渡の三人』
106P 新潟県阿賀町/ 藤沢周『ブエノスアイレス午前零時』
108P 富山県富山市/ 宮本輝『螢川・泥の河』
110P 石川県七尾市/ 西村賢太『どうで死ぬ身の一踊り』
112P 石川県七尾市/ 西村賢太『けがれなき酒のへど』
114P 石川県輪島市/ 宮本輝『幻の光』
116P 福井県南条郡/ 舞城王太郎『熊の場所』
118P 山梨県甲府市/ 辻村深月『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』
120P 山梨県山梨市/ 林真理子『葡萄が目にしみる』
122P 山梨県笛吹市/ 辻村深月『鍵のない夢を見る』
124P 長野県諏訪市/ 湊かなえ『贖罪』
126P 岐阜県多治見市/ 堀江敏幸『雪沼とその周辺』
128P 岐阜県高山市/ 米澤穂信『氷菓』
130P 静岡県浜松市/ 恩田陸『蜜蜂と遠雷』
132P 静岡県磐田市/ 山田詠美『学問』
134P 静岡県伊豆市/ 吉本ばなな『TUGUMI つぐみ』
136P 愛知県名古屋市/ 村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』
138P 愛知県名古屋市/ 上田岳弘『ニムロッド』
140P 愛知県豊橋市/ 池井戸潤『ルーズヴェルト・ゲーム』
142P 東京二十三区、東京(二十三区以外)・神奈川 地図
<東京二十三区>
146P 東京都千代田区/ 朝井リョウ『武道館』
148P 東京都中央区/ 金原ひとみ『fishy』
150P 東京都港区/ 森絵都『風に舞いあがるビニールシート』
152P 東京都新宿区/ 赤川次郎『セーラー服と機関銃』
154P 東京都新宿区/ 吉本ばなな『キッチン』
156P 東京都文京区/ 筒井康隆『文学部唯野教授』
158P 東京都文京区/ 桐野夏生『ファイアボール・ブルース』
160P 東京都江東区/ 東野圭吾『容疑者Xの献身』
162P 東京都品川区/ 西村賢太『苦役列車』
164P 東京都大田区/ 干刈あがた『ウホッホ探検隊』
166P 東京都大田区/ 絲山秋子『イッツ・オンリー・トーク』
168P 東京都世田谷区/ 村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』
170P 東京都世田谷区/ 青山七恵『ひとり日和』
172P 東京都世田谷区/ 新庄耕『狭小住宅』
174P 東京都世田谷区/ 柴崎友香『春の庭』
176P 東京都渋谷区/ 岡田利規『わたしたちに許された特別な時間の終わり』
178P 東京都中野区/ 東山彰良『流』
180P 東京都杉並区/ ねじめ正一『高円寺純情商店街』
182P 東京都杉並区/ 江國香織『きらきらひかる』
184P 東京都北区/ 島田雅彦『優しいサヨクのための嬉遊曲』
186P 東京都北区/ 堀江敏幸『いつか王子駅で』
188P 東京都葛飾区/ 高橋源一郎『ジョン・レノン対火星人』
190P 東京都葛飾区/ 吉田修一『続 横道世之介』
<東京(二十三区以外)・神奈川>
194P 東京都国立市/ 川上弘美『センセイの鞄』
196P 東京都狛江市/ 山田太一『岸辺のアルバム』
198P 東京都八王子市/ 重松清『ビタミンF』
200P 東京都武蔵野市/ 古川日出男『サマーバケーションEP』
202P 東京都府中市/ 多和田葉子『献灯使』
204P 東京都町田市/ 富岡多恵子『波うつ土地』
206P 東京都町田市/ 三浦しをん『まほろ駅前多田便利軒』
208P 東京都町田市/ 村田沙耶香『コンビニ人間』
210P 神奈川県横浜市都筑区/ 角田光代『空中庭園』
212P 神奈川県横浜市中区/ 矢作俊彦『神様のピンチヒッター』
214P 神奈川県横浜市中区/ 柳美里『ゴールドラッシュ』
216P 神奈川県横浜市南区/ 川上未映子『ヘヴン』
218P 神奈川県横浜市港北区/ 遠野遥『破局』
220P 神奈川県川崎市中原区/ 島田荘司『異邦の騎士 改訂完全版』
222P 神奈川県川崎市中原区/ 辻村深月『朝が来る』
224P 神奈川県川崎市川崎区/ 佐藤究『テスカトリポカ』
226P 神奈川県横須賀市/ 矢作俊彦『ロング・グッドバイ THE WRONG GOODBYE』
228P 神奈川県鎌倉市/ 保坂和志『季節の記憶』
230P 神奈川県鎌倉市/ 島本理生『夏の裁断』
232P 神奈川県逗子市/ 道尾秀介『月と蟹』
234P 神奈川県箱根町/ 三浦しをん『風が強く吹いている』
236P 神奈川県箱根町/ 町田康『湖畔の愛』
238P 神奈川県真鶴町/ 川上弘美『真鶴』
240P 「こころ=内面」に寄り添うメディアとしての現代文学
244P 関西・中国・四国、九州・沖縄 地図
<関西>
248P 三重県名張市/ 車谷長吉『赤目四十八瀧心中未遂』
250P 三重県津市/ 森博嗣『工学部・水柿助教授の日常』
252P 三重県津市/ 三浦しをん『神去なあなあ日常』
254P 三重県伊賀市/ 伊藤たかみ『あなたの空洞』
256P 滋賀県彦根市/ 中村航『トリガール!』
258P 滋賀県甲賀市/ 姫野カオルコ『昭和の犬』
260P 京都府京都市右京区/ 佐藤究『Ank : a mirroring ape』
262P 京都府京都市左京区/ 絲山秋子『エスケイプ/アブセント』
264P 大阪府大阪市西区/ 池井戸潤『オレたちバブル入行組』
266P 大阪府大阪市浪速区/ 西加奈子『通天閣』
268P 大阪府大阪市城東区/ 川上未映子『乳と卵』
270P 大阪府大阪市天王寺区/ 有栖川有栖『幻坂』
272P 大阪府大阪市中央区/ 坂上泉『インビジブル』
274P 兵庫県神戸市/ 上田岳弘『塔と重力』
276P 兵庫県尼崎市/ 宮本輝『五千回の生死』
278P 兵庫県芦屋市/ 村上春樹『1973年のピンボール』
280P 兵庫県芦屋市/ 小川洋子『ミーナの行進』
282P 兵庫県宝塚市/ 有川浩『阪急電車』
284P 奈良県大和郡山市/ 一穂ミチ『スモールワールズ』
286P 奈良県宇陀市/ 髙村薫『土の記』
288P 和歌山県新宮市/ 中上健次『枯木灘』
290P 和歌山県那智勝浦町/ 宇佐見りん『かか』
<中国>
294P 鳥取県米子市/ 桜庭一樹『赤朽葉家の伝説』
296P 島根県出雲市/ 豊島ミホ『日傘のお兄さん』
298P 岡山県岡山市/ 原田マハ『でーれーガールズ』
300P 岡山県津山市/ 重松清『流星ワゴン』
302P 広島県広島市/ 今村夏子『こちらあみ子』
304P 広島県尾道市/ 湊かなえ『望郷』
306P 広島県尾道市/ 森見登美彦『夜行』
308P 山口県防府市/ 髙樹のぶ子『マイマイ新子』
<四国>
312P 徳島県徳島市/ さだまさし『眉山』
314P 香川県小豆郡/ 角田光代『八日目の蟬』
316P 愛媛県松山市/ 大江健三郎『取り替え子 チェンジリング』
318P 愛媛県東温市/ 三崎亜記『となり町戦争』
320P 高知県高知市/ 有川浩『県庁おもてなし課』
322P 高知県北部/ 有栖川有栖『双頭の悪魔』
<九州・沖縄ほか>
326P 福岡県北九州市小倉南区/ 吉田修一『ウォーターゲーム』
328P 福岡県北九州市八幡西区/ 松尾スズキ『老人賭博』
330P 福岡県福岡市博多区/ 絲山秋子『沖で待つ』
332P 福岡県福岡市博多区/ 辻仁成『真夜中の子供』
334P 福岡県福岡市中央区/ 田中慎弥『神様のいない日本シリーズ』
336P 福岡県大川市/ 辻仁成『白仏』
338P 福岡県宮若市/ リリー・フランキー
『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』
340P 佐賀県佐賀市/ 吉田修一『悪人』
342P 長崎県長崎市/ カズオ・イシグロ『遠い山なみの光』
344P 長崎県長崎市/ カズオ・イシグロ『浮世の画家』
346P 長崎県長崎市/ 内田春菊『ファザーファッカー』
348P 長崎県長崎市/ 吉田修一『最後の息子』
350P 長崎県長崎市/ 吉田修一『長崎乱楽坂』
352P 長崎県長崎市/ 吉田修一『国宝』
354P 長崎県長崎市/ 青来有一『聖水』
356P 長崎県長崎市/ 青来有一『爆心』
358P 長崎県長崎市/ さだまさし『かすてぃら 僕と親父の一番長い日』
360P 長崎県長崎市/ 中村文則『逃亡者』
362P 長崎県佐世保市/ 村上龍『コインロッカー・ベイビーズ』
364P 長崎県佐世保市/ 村上龍『69sixty nine』
366P 長崎県佐世保市/ 佐藤正午『永遠の1/2』
368P 長崎県佐世保市/ 佐藤正午『鳩の撃退法』
370P 長崎県佐世保市/ 井上荒野『結婚』
372P 長崎県島原市/ 青来有一『人間のしわざ』
374P 長崎県五島市/ 村田喜代子『飛族』
376P 長崎県西海市/ 井上荒野『切羽へ』
378P 熊本県熊本市/ 村上春樹『女のいない男たち』
380P 熊本県阿蘇市/ 絲山秋子『逃亡くそたわけ』
382P 熊本県上天草市/ 田辺聖子『ジョゼと虎と魚たち』
384P 大分県大分市/ 綾辻行人『十角館の殺人 新装改訂版』
386P 大分県佐伯市/ 小野正嗣『残された者たち』
388P 大分県豊後高田市/ 東野圭吾『ナミヤ雑貨店の奇蹟』
390P 大分県沿岸部/ 町田そのこ『52ヘルツのクジラたち』
392P 宮崎県西都市/ 平野啓一郎『ある男』
394P 鹿児島県熊毛郡/ 池井戸潤『下町ロケット』
396P 鹿児島県大島郡/ 有栖川有栖『孤島パズル』
398P 沖縄県浦添市/ 高山羽根子『首里の馬』
400P 沖縄県那覇市/ 桐野夏生『メタボラ』
402P 沖縄県読谷村/ 真藤順丈『宝島』
404P 旧鳴神島(一年のみ日本領)/ 古川日出男『ベルカ、吠えないのか?』
406P 参考文献
408P おわりに
412P 掲載作品年表
前書きなど
文芸批評は私情や思想をもとに、作品の「メロディ」や「リズム」を読み解き、独立した音楽を奏かなでるアンサンブル(合奏)のようなものだと私は考える。メロディやリズムは奏でる音の中にだけではなく、音のない「間」の中にも宿る。「間」の中からメロディやリズムを聞き取り、作品から独立した批評を展開するためには、私情を他人を惹きつける言葉に変える文学的な想像力と、思想を社会に通用する論理に変える哲学的な想像力の双方が不可欠である。
この本は文学と哲学の素養をもとに、日本の現代小説の固有性を探求した批評文だと要約できる。国際的に高い評価を獲得している現代日本の文学作品の粋を、土地の固有性に着目して論じる総合的な文芸批評を展開したい、と思いこの本を記した。
日本各地にショッピングモールが建ち、中心市街地が空洞化し、土地の固有性が失われていく中で、近年、土地と人間の関わりを再考するような現代小説が人気を集めている。このような状況を踏まえ、この本では、北海道から沖縄まで四十七都道府県すべてを舞台にした作品を取り上げた。本書は、風景の均質化と過疎化が進行する現代日本で、特徴的な土地と人間の関わりを描いた現代小説一八〇作品について論じた文芸批評書である。なお作品の舞台となった場所には、推定したものも含まれるため、地名については作品を理解する上での一つの「切り口」と考えてほしい。
日本にはユニークな歴史を有した場所が数多くあり、観光資源だけではなく、各地の風土に根ざした「文学的資源」にも恵まれている。もちろん土地の伝統は、再帰的に作られるものである(伝統に依拠しつつ、それを破壊しながら作られるものである)。たとえば本作で取り上げたねじめ正一の『高円寺純情商店街』のように、固有の場所を舞台にした小説が直木賞を受賞し、ヒット作となったことで、商店街の名前が変わることもある。この本は全国各地を舞台にした現代小説を網羅した「旅行ガイド」や「聖地巡礼本」という性格も持つ。
なお本書の目次に記載した各地の小説には、テーマ毎に読みを深める一助として、次の四つの区分で各三〇作品(計一二〇作品)を選定し、マークを付している。一つ目のマークが、現代文学を理解する上で不可欠な「必読作品」、二つ目が、感想文やレポートなど「教育向きの作品」、三つ目が、表現の新しさが光る「注目作品」、四つ目が、旅情を味わえる「観光向きの作品」である。また主要な文学賞の受賞作(計七四作品)についても、マークを付しているので、参考にしてほしい。本書は、著名な作家の代表作を数多く批評しているが、その一方で各賞を受賞していない「意外な場所を舞台にした、知られざる名作」も数多く取り上げている。この点にも注目してほしい。
また本書で取り上げる「現代文学」は、純文学作品に限らない。オリジナリティーあふれる着眼点で、明晰に時代を風刺した「直木賞寄りの現代文学」を数多く含む。具体的には、綾辻行人や桐野夏生などミステリ小説の大御所から、大江健三郎や絲山秋子など純文学の大家、赤川次郎や有川浩のようなベストセラー作家まで、直木賞と芥川賞の垣根を超えて、多様なジャンルの「現代文学」について論じている。新聞連載をもとにした本ということもあり、どの作品から現代小説を読んでいいか分からない読者に向けた「現代小説の入門書」や「読書感想文のガイドブック」という性格も持つ。
文芸は批評も含めて、着眼点のオリジナリティー、地に足の着いた論理の明晰さ、時代を風刺する表現の豊かさが生命線だと私は考えている。
たとえば長崎市出身の吉田修一は、『最後の息子』や『長崎乱楽坂』や『悪人』などの小説で、血縁や地縁に根ざした「しがらみ」の中で、土地から湧き出るように「怒り」が生まれ、それが時に一線を越えて、地に足の着いた人生を変容させていく姿を描いている。地方都市の日常の中で、人々が「見えない段差」に躓くように、他人の悪意や怒りに飲み込まれていく描写は、他の著者の作品にも見られる。
桐野夏生は金沢市生まれで、仙台を経て東京で育った作家であるが、現代日本が抱える「格差問題」の「しわ寄せ」が来ている地方を舞台にして数多くの小説を発表してきた。たとえば『メタボラ』は沖縄を舞台に、非正規雇用の仕事を転々としてきた現代の若者たちと、戦時中の若者たちの姿を重ねながら、現代的な「戦争」を描いた意欲作である。『バラカ』は福島第一原発事故の被害を、首都が大阪に移転されるほど深刻なものとして描いた「震災文学」で、東北の被災地に生じた「被害格差」を多様なものとして炙り出すことに成功している。
湊かなえは広島県にある因島市の柑橘農家に生まれ、小学校から高校まで島内で教育を受け、その後、家庭科の教師として赴任した淡路島で執筆を続けてきた。『望郷』は著者のルーツに迫る代表作で、島の造船業の衰退や因島大橋の完成後の島の人々の生活の変化など、しまなみ海道の「通過点」となった土地の「現代」を上手く伝えている。ベストセラーとなった『贖罪』も、精密機器メーカーの工場の密集地だった時代の諏訪湖(長野県)周辺の風景を描いていて地方色が濃い。
伊坂幸太郎は千葉県の出身であるが、東北大学に入学して以来、仙台に居住し続け、市街地の喫茶店などで仙台を舞台とした作品を記すことで、本格派のミステリ作家として大成した。『重力ピエロ』や『ゴールデンスランバー』など仙台を舞台にした代表作を通して、伊坂は「失われた時代」を生きる若者たちの現実感をとらえ、軽やかな筆致でありながら、地に足の着いた作品世界を確立し、数多くの読者を獲得することに成功した。
兵庫県芦屋市出身の村上春樹は、デビュー作の『風の歌を聞け』と二作目の『1973年のピンボール』で、故郷の風景を「匿名性」の高いものとして描いている。村上春樹は、芦屋の風景を匿名化した上で、それは「別の町でもあり得る」という、交換可能な現実感を表現している。彼の作品が海外で人気を博してきた大きな理由は、世界中で生活空間の均質化が進行する時代に、匿名性の高い場所で、「見えない段差」に躓くような現実感をとらえてきたからだと私は考える。
村上春樹と対照的に、村上龍が描く故郷・佐世保の風景は、デビュー直後から土地に根を張った具体的なものであった。村上龍は自身の佐世保北高校時代の経験を踏まえて、自伝的な小説『69sixty nine』を記し、映画版も人気を博して代表作となった。この作品は青春小説というイメージが強いが、学生運動が隆盛した一九六九年という時代と、米軍基地のある佐世保や閉山が近い炭鉱町の雰囲気を、丁寧に描いている。他の作品も含め、村上龍は九州北部の方言を用いた現実感の構築の仕方が上手い。
山田詠美は、村上龍とは異なる視点から、東京郊外の福生市を舞台に、米兵たちと登場人物の関わりを描いてきた。代表作の一つ『学問』では、山田が育った静岡西部の土地と結びついた「性的な感情」を描くことで、作家として新境地を切り開いている。他にも佐藤泰志が『海炭市叙景』で描いた函館の風景や、桜木紫乃が『ラブレス』で描いた釧路の風景、辻村深月が『朝が来る』で描いた武蔵小杉の風景は、それぞれ固有の「情景」として、現代文学をメディアとして記憶されていくと思う。
現代文学の定義については、様々あると思うが、この本では平成から令和の現代に至る文学作品を中心として取り上げ、重要な作家の作品については、私が生まれた一九七七年以後の昭和期の作品も取り上げた。批評した作品の年表(一九七七~二〇二一年)も本書の最後に収録しているので参照してほしい。参考までに記せば、村上龍のデビューが七六年、村上春樹のデビューが七九年である。
この本では、生活空間の均質化が避けられない時代に、人間性の均質化(内的な時間の均質化)に抗うべく、広い意味での「地方」を舞台に、「訛り」を帯びた感情をすくい取った現代文学の名作を取り上げている。現代小説に「土地の記憶」を伝える優れた作品は多く、この本が、現代日本の集合的記憶を後世に伝達する「メディア」としての役割を果たせれば、嬉しい。