目次
はじめに 福澤諭吉と『学問のすゝめ』をめぐる驚くべき真相/1
本書『一万円札は泣いている—福澤諭吉の本性』の意義 1
『日之本文書』は人類の普遍的な平等観、世界観、自然観、歴史観を表現している 2
本書の役割分担と引用文献、読み方と意義 3
第一章 福澤諭吉『学問のすゝめ』冒頭文と『日之本文書』の祖訓/9
福澤諭吉『学問のすゝめ』の冒頭文「天は人の上に人を造らず」の幾つかの謎 9
『学問のすゝめ』は初編から十七編までの合本 10
『学問のすゝめ』は当時数十万部のベストセラーとなる 14
『学問のすゝめ 初編』の成立、発刊、普及のいきさつ 16
なぜ、『学問のすゝめ 初編』は人類の普遍的な価値観へと突出できたのか 19
『学問のすゝめ 初編』は『東日流外三郡誌』「荒羽吐族史伝」などを参考にした 21
『学問のすゝめ 初編』は全体的に『日之本文書』の価値観を組み込んだ 23
荒羽吐族、「荒羽吐族史伝」とは何か 27
『学問のすゝめ 初編』冒頭文はどこから影響を受けたのか 29
『学問のすゝめ』冒頭文は「アメリカ独立宣言」の平等主義からきたのか 31
『学問のすゝめ』冒頭文はサミュエル・スマイルズの『自助論』の平等主義からきたのか 32
『学問のすゝめ』冒頭文はジョン・ミルトンの『失楽園』の平等主義からきたのか 34
なぜ、『学問のすゝめ 初編』の冒頭文が慶應大学東館にラテン語で書かれてあるのか 36
福澤諭吉の「天」は、西欧的な「天」Creator(造物主)、またはnature(自然)からきたのか 38
諭吉晩年の宇宙観、自然観は和洋折衷で、諭吉独自のものではない 40
諭吉の冒頭文の「天」は『日之本文書』の「神」(カミ)を差し替えて使用された 42
第二章 福澤諭吉の人間観、文明観は西洋的価値観に引きずり込まれた/45
福澤諭吉は下級士族の出身であったが、両親、兄弟、藩主、教師などに恵まれた 45
緒方洪庵の自由な適塾での生活も彼の人格形成に役立った 46
中津藩は豊前にあって幕府中枢、薩摩島津藩、常陸松平藩とも親密な関係にあった 48
福澤諭吉は3度の欧米渡航で徹底した西洋文化に染まってしまった 53
福澤諭吉は西洋知識、西洋文化の紹介で「日本第一の著述家」となっていた 54
福澤諭吉『学問のすゝめ 初編』以前の人間不平等観 56
福澤諭吉『学問のすゝめ 初編』以降の人間不平等観 58
『日之本文書』の人間平等観は「天秤の計のように狂うことはない」 60
諭吉は「民権と国権」の中で揺らぎ続け、「官民調和」で安易に手を打った 62
『日之本文書』の民権論者は「自由民権の世に丑寅日本を復そうではないか」と革命論を主張 65
自由民権の闘士、和田末吉の雄たけびと挫折、そして福澤諭吉の裏切り 68
諭吉の文明論、野蛮から半開へ、半開から文明への進歩、発達の論理 70
諭吉が好んだ「独立自尊」の本当の意味は、ラテン語の「分けることができない個体」から来ているのか 72
諭吉自身の欧米の巡行、外遊によって身につけた西洋文明観の功罪 75
諭吉曰く「ヨーロッパ、アメリカの諸国は富んで強く、アジア、アフリカの諸国は貧にして弱し」 76
諭吉の身勝手で一方的な日本アジア盟主論、アジア政略論 78
諭吉の欧米人と同類の世界の先住民侮蔑観 80
諭吉による古代人、文明人、および古代社会、文明社会の認識の逆転 81
諭吉による欧米人と同類のアジア人蔑視観 83
第三章 福澤諭吉の自然観、学問観、君主論、戦争論は『日之本文書』と正反対/ 88
諭吉の自然観は「地を従わしめよ」の完璧な旧約聖書的、西欧的自然支配思想 88
『日之本文書』の「天然、大自然をカミとする」自然共生的な自然観 90
諭吉の人間観は「人間は利己的で競争、抗争する生き物である」という西洋的なもの 92
『日之本文書』の「共に労し、共に分かつ」相互扶助的な人間論 94
諭吉による、一方では相互扶助論、他方では戦争肯定論の両天秤 95
諭吉による、賢人、愚人、富人、貧人を峻別し「寛仁大度」にもとる学問観、教育論 97
諭吉の立身出世万能型、学歴偏重型の学問観、教育観は有害無益である 99
諭吉、ついには大日本帝国憲法、教育勅語体制に賛同してしまう 102
和田末吉、長作親子、諭吉が強い影響を与えた教育制度に憤る 103
諭吉の目指した人間至上主義、物質至上主義、学歴至上主義による学問観の間違い 104
日之本国の目指した自然優先、地球優先の学問観、教育観 106
諭吉創刊の「時事新報」で右旋回、体制迎合、侵略主義に傾く 108
諭吉は民間最高の戦争協力人、慶應義塾は民間最高の戦争協力校 110
諭吉は「時事新報」の極端なアジア蔑視社説の全体に責任がある 111
あくまでも「時事新報」偏向キャンペーンの主犯が福澤であり、従犯が石河であった 113
晩年の諭吉は「時事新報」の歪んだ経営責任、編集責任にいささかの反省もなし 115
慶應大学関係者の福澤研究家による差別、侵略、戦争否定の諭吉弁護は成り立つのか 117
諭吉は帝室崇拝論、天皇崇拝論で天皇制軍国主義翼賛体制の露払いをした 119
『日之本文書』の「君民相互の政事」「君民共治」を掲げる君主論 121
諭吉の「戦争は百毒百害の性質があるものではない」とする戦争容認論、軍国主義強国論 123
『日之本文書』の「民の睦みはどのような人々とも分け隔なく」とする絶対的な平和主義と戦争否定論 126
第四章 なぜ、福澤諭吉と『日之本文書』は結びつくことになったのか/ 130
『学問のすゝめ』冒頭文は出所を明らかにしないとの約束で、『日之本文書』から引用した 130
「人の上に人を造らず」は多くのバラエティに富んだ表現として記録されてきた 132
『日之本文書』の「神」「天」は縄文語のカミ、すなわち、天然自然そのもの 134
「人の上に人を造らず」は日之本国の祖訓、銘訓、故訓であり、掟、導き、教えである 136
三春藩は奥羽越列藩同盟から離脱し、官軍に協力、秋田家は明治政府公認の子爵家となる 138
最後の三春藩主、秋田映季は慶應義塾に入塾して、諭吉の教えを受ける 140
廃仏毀釈による石塔山荒覇吐神社廃滅の危機を救った和田末吉 143
秋田映季は、直接、間接に福澤諭吉、大久保利通と和田末吉らの関係をとりもった 144
和田末吉は石塔山の荒覇吐神社を護るために秋田映季、福澤諭吉を通じて大久保利通に働きかけてもらった 146
福澤諭吉と大久保利通は少なくても3回面談している 147
福澤諭吉の働きかけで大久保利通が荒覇吐神社の存続を承認した 150
「門外不出、他見無用」の『和田家文書』から諭吉は『学問のすすめ』の冒頭文を極秘に引用した 153
『日之本文書』「明治写本」の作成者である和田末吉と自由民権運動 155
自由民権運動の先頭に立った三春藩の河野廣中と和田家の人々 157
福澤諭吉と和田末吉との赤坂での演説会はあったのか 158
秋田家の輝かしい歴史を誇る奥州三春藩 160
福澤諭吉関係者は、『日之本文書』から引用した諭吉の先見の明を評価すべき 161
第五章 福澤諭吉と『日之本文書』と偽書論争/ 166
「寛政原本」の発見で『日之本文書』偽書論争に決着はついたが 166
大敗北を喫したにもかかわらず、偽書派は謝罪も反省もなく、沈黙を決め込むだけ 169
「福澤諭吉からの手紙」の真贋論争 171
末吉の「覚」と諭吉の「手紙」によって二人の意志の疎通があったことがわかる 174
「東奥日報」編集委員(当時)斉藤光政記者の偽書派としての主張 175
産能短大安本美典教授(当時)の偽書派としての主張 177
慶應大学福澤研究センター西川俊作教授(当時)の偽書派としての主張 178
活字本『和田家文書』の編集・出版者藤本光幸氏の真書派としての主張 180
『和田家文書』研究家竹田侑子氏の真書派としての主張 181
昭和薬科大学古田武彦教授(当時)の真書派としての主張 185
名古屋大学安川寿之輔教授(当時)の真書派としての主張 186
本書筆者、日之本文書研究会、久慈力の真書派としての主張 189
第六章 福澤諭吉が参考にしたと思われる『日之本文書』/194
福澤諭吉が参考にしたと思われる『日之本文書』 194
『東日流外三郡誌 第一巻』「安倍次郎貞任遺文」は可能性が高い 195
『東日流六郡誌大要』「祖訓大要 壱儀」は可能性が低い 199
『東日流外三郡誌 第五巻』「怨霊不滅之譜」は可能性が高い 200
『東日流外三郡誌 第五巻の宗教編』「累代之陽光に遺す」は可能性が高い 201
本書の結論はこれだ 202
第七章 福澤諭吉の冒頭文と『日之本文書』「人の上に人を造らず」100選/206
『東日流外三郡誌』(北方新社)より 206
『東日流六郡誌大要』(八幡書店)より 218
『總輯 東日流六郡誌 全』(津軽書房)より 221
『北斗抄』(北方新社 『和田家資料3、4』)より 222
「奥州風土記 全」(『和田家資料1』)より 232
「丑寅日本記」(『和田家資料2』より) 233
「北鑑」(藤本光幸氏書き下し未刊原稿)より 236
「日本北鑑 全」(同未刊原稿)より 245
「丑寅日本国古事抄」(同未刊原稿)より 246
「東日流語文字譯」(同未刊原稿)より 248
「陸奥古事抄 全」(同未刊原稿)より 249
「東日流外三郡誌」(同未刊原稿)より 252
その他の文書(刊行原稿)より 254
その他の文章(同未刊原稿)より 256
あとがき 『学問のすゝめ』をめぐる希望と失望/258