紹介
本書は、二十世紀前半のライプツィヒで聖トーマス教会のカントル(音楽監督)を務めたカール・シュトラウベのバッハ〈カンタータ〉演奏実践を手がかりに、「ライプツィヒのバッハ様式」が実在したのかを探る試みである。礼拝前の「教会音楽」で教会暦に沿ってカンタータ演奏を重ね、さらにラジオ放送へ広げた四カ年計画によって、教会の場から家庭の受信機まで「祈りの時間」を運んだ過程をたどる。残された録音の分析からは、遅めのテンポ設定、節度あるテンポ変化、語りを重んじるレチタティーヴォ、オルガンを核にした通奏低音といった特徴が浮かび上がる。若き日の宗教的真摯さと技術への志向は、後年の「客観性」追求へと連続し、信仰と音響を結ぶ演奏理念として結実したことが示される。影響は直弟子のラミーンやリヒターに及び、のちの受容史にも痕跡を残した。本書は、ロマン主義、新即物主義、歴史的演奏実践のはざまを橋渡しした一つのスタイルを、神話でも賛歌でもなく、録音と資料という証拠から描き出すものである。専門家だけでなく、バッハを「どう聴くか」に関心をもつ読者にも開かれた一冊。
目次
凡例
序章
第1章・神話か様式か―毀誉褒貶のシュトラウベ評
1.1. トーマスカントル―オルガニスト、教育者そして指揮者として
1.2. シュトラウベによるシュトラウベ
1.2.1. マックス・レーガーとドイツ音楽史
1.2.2. バッハ以前の音楽
1.3. 先行研究におけるシュトラウベの演奏に対する評価
1.3.1. 「カンタータ演奏」に関する先行研究
1.3.2. 「カンタータ放送」に関する先行研究
1.4. 「ライプツィヒのバッハ様式LeipzigerBachstil」はあったのか
第2章・「教会音楽」の実践―「カンタータ演奏」
2.1. バッハのカンタータについて
2.2. バッハの演奏実践の変遷におけるシュトラウベ
2.2.1 「オーセンティックな」バッハの演奏
2.2.2. シュトラウベの変遷と演奏史における位置づけ
2.2.3. 断絶と連続
2.3.教会におけるカンタータ演奏
2.3.1. 現存する資料
2.3.2 「教会音楽」の演奏記録
2.3.3. バッハをうたう―教会における演奏実践の痕跡
第3章・過渡期の演奏様式なのか―「カンタータ放送」
3.1. 音楽の敵か味方か―新メディアとしてのラジオ放送
3.2. カンタータ全曲放送
3.2.1. プロジェクト初期
3.2.2. 計画の変遷
3.2.3.全曲演奏の「野望」
3.3. 録音分析
3.3.1. 演奏分析の方法―ソニック・ヴィジュアライザーについて
3.3.2. テンポとその変動
3.3.3. スペクトログラムにみる発声とヴィブラート
3.3.4. オルガニストと通奏低音
第4章・後代への影響―「演奏家」シュトラウベのうけつがれる技術
4.1. 同時代そして後代へ
4.1.1. 同時代から―メンゲルベルク、フルトヴェングラー
4.1.2. 「弟子たち」―ギュンター・ラミーン、カール・リヒター
4.2. ひきつがれた演奏上の特徴
4.2.1. テンポとフレージング
4.2.2. 歌唱―合唱団
4.2.3. 歌唱―ソリスト
4.2.4. 「ライプツィヒのバッハ様式」
第5章・「ライプツィヒのバッハ様式」の位置―新メディアと変化の向こうに
5.1. 放送メディアと芸術
5.1.1. 新しい聴衆の獲得
5.1.2. 〈いま-ここ〉の変容
5.2. バッハ演奏史における「ライプツィヒのバッハ様式」の場所
結論
参考文献
補遺 カール・シュトラウベ関連年表
資料
資料1 教会音楽における演奏曲(1919年)
資料2 教会音楽における演奏曲(1921年)
資料3 教会音楽における演奏曲(1928年)
資料4 教会音楽における演奏曲(1930年)
資料5 教会音楽における演奏曲(1932年)
資料6 教会音楽における演奏曲(1933年)
資料7 教会音楽における演奏曲(1935年)
資料8 教会音楽における演奏曲(1936年)
資料9 教会音楽における演奏曲(1937年)
資料10 教会音楽における演奏曲(1938年)
資料11 教会音楽における演奏曲(1939年)
資料12 カール・シュトラウベ在任中にトーマス、ニコライ両教会の「教会音楽」で演奏されたJS.バッハ声楽作品と演奏回数
資料13 「カンタータ放送」予告(1931年)
資料14 「カンタータ放送」予告(1932年)
資料15 「カンタータ放送」予告(1933年)
資料16 「カンタータ放送」予告(1934年1月から3月)
資料17 「カンタータ放送」予告(1934年4月以降)
資料18 「カンタータ放送」予告(1935年)
資料19 「カンタータ放送」予告(1936年)
表一覧
図像一覧
譜例一覧
前書きなど
20世紀は、作曲家ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(1685-1750)のカンタータ作品が、ふたたび花開いた時代である。
J.S.バッハの作品群は、作曲家の死後、器楽曲の楽譜が少しずつ広まり、19世紀後半にかけてバッハ全集が出版されたことを契機として、やがてカンタータ作品にも注目が集まるようになり、作曲したカンタータ作品、なかんずく教会カンタータ作品の重要性が知られるようになった(樋口1987,124-125)。たとえば20世紀初頭の時点で、アルベルト・シュヴァイツァー(1875-1965)は、カンタータ作品が、バッハの生涯の中で一時代を画す重要な作品群であると指摘している(シュヴァイツァー1955[1905])。それにも拘わらず作曲家の死後、その体系的な演奏は長くおこなわれることがなかった。全曲録音が達成されたのは、20世紀の後半のことである。バッハ研究の進展に、録音メディアの発達が加わり、ニコラウス・アーノンクール(1929-2016)およびグスタフ・レオンハルト(1928-2012)、ヘルムート・リリング(1933-)、トン・コープマン(1944-)そして鈴木雅明(1954-)という五人の演奏家によって、全曲録音が成し遂げられたのだ。これらの全曲演奏はいずれも注目を集め、バッハ演奏史上に刻まれ、聴衆に記憶されるものとなった。
ところが歴史をさらに遡ると、20世紀前半期の時点ですでに、バッハの教会カンタータを体系的に演奏しようとする試みがあった。カール・シュトラウベ(1873-1950)がライプツィヒでおこなった全曲演奏である。
カール・シュトラウベは1873年にベルリンに生まれ、オルガニストでハルモニウム製作者の父から基礎的な音楽教育を受けた後、ハインリヒ・ライマン(1850-1906)にオルガンを学んだ。1903年にライプツィヒ、聖トーマス教会のオルガニスト(以下トーマス・オルガニストと略記)に就任すると、その職務と並行してバッハ協会合唱団を率い、バッハの声楽作品の大曲を演奏した。1918年に、同年死去したグスタフ・シュレック(1849-1918)の後任として聖トーマス教会カントル(以下トーマスカントルと略記)となった。オルガニストとしては、マックス・レーガー(1873-1916)の音楽の紹介者として知られ、さらに1919年にはライプツィヒ音楽院に教会音楽研究所を設立するなど、後進の育成にあたったことでも知られる。1950年にライプツィヒで没した。
トーマスカントル在任期間中の1918年から39年まで、シュトラウベがライプツィヒのトーマス、ニコライ両教会でおこなったバッハの教会カンタータの連続演奏、特に1931年から37年まで続いたラジオによる全曲放送は、20世紀後半に録音された全曲演奏の嚆矢と考えられる。1918年から39年までトーマスカントルの任にあったシュトラウベは、在任中、トーマス、ニコライ両教会においてつねにカンタータの連続演奏(以下「カンタータ演奏」と略記)をおこなうばかりでなく、1931年当時現存すると考えられていたバッハの全カンタータの演奏をラジオによって中継すること、つまりラジオ放送(以下「カンタータ放送」と略記)をも手がけたのである。