目次
はじめに──「地域と国際関係」をめぐって…………………………………………………百瀬 宏
Ⅰ 一八六〇年代のブルガリア人移民社会とバルカン諸国…………………………………菅原 淳子
はじめに
一 クリミア戦争後のバルカン諸国とブルガリア人
(1)一八六〇年代初頭のバルカン情勢
(2)各地のブルガリア人移民社会
(3)クリミア戦争後のラコフスキの活動
(4)ラコフスキとベオグラード要塞事件
二 ブカレストのブルガリア人移民社会
(1)ルーマニアのクーデタとブルガリア秘密中央委員会の設立
(2)ラコフスキによるブルガリア秘密最高人民司令部
(3)慈善協会と南スラヴ国家創設構想
(4)秘密中央委員会と二重帝国案
三 一八六八年の移民社会とバルカン諸国
(1)一八六八年のブカレスト移民社会
(a)ブルガリア協会から青年ブルガリアへ
(b)パリ列国会議への請願書
(c)ブルガリア学術協会の設立
(2)バルカン同盟の結成
(3)バルカン連邦構想
おわりに
Ⅱ 代案としての国際運動——両大戦間期のマケドニア運動………………………………大庭 千恵子
はじめに
一 一九世紀末から第一次世界大戦までのマケドニア運動
(1)ブルガリア領域内におけるマケドニア移民協会活動
(2)オスマン帝国領域内におけるマケドニア運動
二 第一次世界大戦後のブルガリアにおけるマケドニア運動
(1)マケドニア移民協会の活動
(2)ブルガリア国内における「内部マケドニア革命組織」
(3)「内部マケドニア革命組織」の影響力拡大
三 ディミタル・ヴラホフの活動
(1)第一次世界大戦期までのディミタル・ヴラホフの経歴
(2)ディミタル・ヴラホフとコミンテルンの接触
(3)ディミタル・ヴラホフとBMPO統一派
むすびにかえて——国民国家体系への問題提起
Ⅲ ラトヴィヤ共和国成立史——研究史からみるラトヴィヤ国家独立基盤の脆弱性………志摩 園子
はじめに
一 「ラトヴィヤ」と「ナショナル・ヒストリー」
二 ラトヴィヤ共和国成立史の叙述をめぐる史的展開
(1)戦間期の研究
(2)第二次世界大戦後のラトヴィヤ人亡命者系の研究
(3)第二次世界大戦以後のラトヴィヤ・ソヴィエト社会主義共和国、あるいはソ連邦での研究
(4)独立回復後の「ラトヴィヤ史」研究の特徴
(a)独立回復当初の試行錯誤期
(b)「ラトヴィヤの歴史」の再確認期
結びにかえて
Ⅳ 第二次世界大戦直後のノルウェーにおける暫定政権の形成
――戦後世界の考察の一助として…………………………………………………大島 美穂
はじめに
一 ノルウェーの解放の見取り図――ロンドン亡命政権とレジスタンス、連合軍
二 本国レジスタンスの構成
三 暫定政権の形成
四 解放直後の国会再召集問題と首相の選任
五 暫定政権の構成
おわりに
Ⅴ 戦後フィンランドの対ソ政策──「小国」のリアリズム再考……………………………百瀬 宏
はじめに
一 問題の背景
二 戦後フィンランドの出発
三 冷戦状況亢進下での往復リアリズムの定着とYYA条約の締結
結び
Ⅵ 欧州における下位地域協力の展開――近代国家体系への挑戦……………………………高橋 和
はじめに
一 地域主義アプローチ――水平的拡大
(1)地域の論理――ユーロリージョン・ナイセを事例として
(2)EUの論理
二 マルチレベル・ガバナンス――垂直的拡大
三 ユーロリージョンを動かしているのは誰か?
おわりに
Ⅶ 太平洋島嶼諸国における「市民社会」のリージョナリズム参加と平和構築の展望……小柏 葉子
はじめに
一 太平洋島嶼諸国における紛争
(1)太平洋島嶼諸国の多様性と細分化
(2)紛争の発生
二 太平洋諸島フォーラムの試み
(1)「市民社会」のリージョナリズム参加
(2)「市民社会」の性格
三 村落コミュニティによる試み
(1)「市民社会」と村落コミュニティ
(2)村落コミュニティによる行動──ブーゲンヴィル島の事例
四 平和構築への展望
おわりに──解説とコメント………………………………………………………………………百瀬 宏
あとがき……………………………………………………………………………………………髙橋 和
前書きなど
はじめに──「地域と国際関係」をめぐって 百瀬 宏
津田塾大学大学院国際関係学研究科で私が担当したゼミナールの参加者だった人たちが、研究会を組織してから略一〇年にもなるだろうか。昔のゼミ生といっても、すでに研究教育者として大成し、今では押しも押されない教授方である。そういう人々が定期的にもつ研究会となると、これはただ事ではない。
定年退職して月日の経つ私は、声をかけられて恐る恐る出席したが、この研究会には果たせるかな大目的があった。それは、自分たちが学徒として創始した国際関係学の一つの里程標として、共同研究の論文集を出すことであるという。その証人として呼び出された格好の私は、出席して報告を聞き、討論を拝聴しているうちに、大きな感慨を以て回想せざるをえなかったことがある。
それは、私が、東京大学教養学部の後期課程に新設されていた教養学科国際関係論分科に二期生として進学した当座のことである。分科の主任格の江口朴郎先生が訓示をされた中で、「昨日のあの場では、矢内原先生が仰った事柄ではありますが、私が公然と申し上げたことがあります。私は、国際関係と地域の研究はそれぞれ別ではなく、補い合っているべきものだと考えます。」といわれたのである。その「昨日のあの場」とは何だったのか、私はうっかり出席しそこなっていたので、語ることはできないが、趣旨は、その場の先生の発言だけで十分理解することができた。
これは、大変に重要なことである。何しろアメリカ、イギリス、ドイツ、フランスの四つの地域研究と国際関係論研究、それに科学史および科学哲学の六つの分科を平行に並べて学科を新設するという試みは、既定のものであったから、江口先生の発言は、本当は学科のカリキュラムをひっくり返すような爆弾提案だったわけである。無責任な学生の立場にある私は、そんな制度上の大問題とは思わなかったものの、理屈としてはその通りだな、と思ったことを鮮明に覚えている。後年になって知ったことであるが、上記学科の内容が国際関係論一本で行くべきか、それとも地域研究を内容とすべきかについては学部内でも議論があり、地域研究が今後の学部の特色となるべきであるという見解と、戦前の日本のアジア関係研究機関の御用学問化を警戒する矢内原学部長らの見解とが対立していた由である。因みに矢内原先生は、「国際政治経済論」の講義中に問わず語りのようにして、「アメリカでは学者が政治に役立つ研究をしているようだが、わが日本では学者は政治に利用されるべきではないと思う」とコメントされたことがあった。江口先生は、後に学術会議が科学研究費の配分をまさに「実用向き」に変えていった時それに厳しく反対されたが、上記の論争がらみでは、「学問は役に立たなければならない」という、研究者の主体を信頼した観点から、総合というかaufhebenというか、そうした方向でのあるべき解決策を提言しておられたわけである。
さて、東京大学教養学部の助手となって、コンパの時など江口先生の隣に侍り、毎年新しく入ってくる大学院生の「国際関係論て何ですか」という鋭い追及に悩まされていた私は、北大のスラブ研究施設の研究員になってホットしたのも束の間、ある日突然私の法学部での「国際政治」の講義が終わるなり私を追いかけてきた学生から、「先生は、東大の国際関係論にいたんでしょう? 北大にも国際関係論を作って下さい」と食い下がられた。「法外なことをいうな」と煙幕を張って研究室へ逃げ帰った私は、ほっとしながらも、何かを裏切ったような思いに付きまとわれていた。そうしたところに、大学院時代に私のむしろ「後輩」的立場にあった藤村舜一、南塚信吾両氏から「津田塾大学に国際関係学科ができたので来ないか」と誘いを受けた。歌舞伎の芝居の連理引きにでもかかったように津田塾大学に赴任した私は、何と、そこに国際関係と諸地域が編み出す碁盤縞のようなカリキュラムが準備されているのに驚くとともに感銘した。それは、むろん上記のお二人の苦心の賜物であったが、程経ずして江口先生が赴任してこられたのである。
国際関係と地域を研究の上で組み合わせるという手法については、これを「国際関係学」という称呼の下に研究教育のプログラムとして採用した点で、津田塾大学が先行したといえるであろうが、その後、程経ずして日本全国にわたって同趣旨に立つ諸大学が陸続と名乗りを上げたのであるけれども、それを学問研究の上で実践することは簡単ではなかった。その重大課題に正面から挑んだ先駆的な研究者が津田塾大学から続々生まれているが、本書の著者には、そうした中でとくにヨーロッパを研究テーマとして相互陶冶に務めてきた人々が多く含まれている。
論集から窺われる国際関係学の意義
読者が見られるように、ここには、現在諸高等教育機関で国際関係学がらみの研究教育に関わっている投稿者の労作が積まれているが、その表題を論者とともに編集順に列挙するならば、次のようである。「一八六〇年代ブルガリア人移民社会とバルカン諸国」(菅原淳子)、「代案としての国際運動──両大戦間期のマケドニア運動」(大庭千恵子)、「ラトヴィア共和国成立史──研究史からみるラトヴィア国家独立基盤の脆弱性」(志摩園子)、『第二次世界大戦直後のノルウェーにおける暫定政権の形成――戦後世界の考察の一助として』(大島美穂)、「戦後フィンランドの対ソ政策──「小国」のリアリズム再考」(百瀬宏)、「欧州における越境地域協力の展開」(髙橋和)、「太平洋島嶼諸国における『市民社会』のリージョナリズム参加と平和構築の展望」(小柏葉子)。
読者によっては、論文のテーマが、移民社会であったり、国家の独立であったり、国際運動であったり、越境地域協力であったり、平和構築であったりする多様さに、そして地域もヨーロッパから太平洋に広がる多彩さに、いったい何が共通テーマであるのかと戸惑われる方もあるに違いない。しかし、国際関係学に造詣をもった読者ならば、次の瞬間には、それらを一貫して共通する斯学ならではの纏まりを感得されるに違いない。
しかし、国際関係学に造詣をもたない読者も、すこし考えてみられるならば、そこに諸論考を一つの流れとして認識させるいくつかの特徴が浮かび上がってくるであろう。
その特徴の一つは、まず、諸論考の表題のどこにも姿を見せない、しかし、全編を貫いている「国際関係」という四文字である。「国際関係」は、諸論考のいずれについても、いわば見えざる仕掛け人であり、舞台回しである。しかし、どの場合にも悪役であって、しかも、その悪役ぶりたるや、時にはまともな悪さを発揮するかと思いきや、時には如何にもその場を救うが如き様相を見せながら人々を誤らせ舞台下の奈落へと導いていく。その正体は、軍事力、現代においてはその他の強制力も動員した権力政治(power politics)によって目的を達成しようとする近代国家体系(Modern State System)である。ちなみに近代国家体系は、権力政治のほかに国家主権の概念および国際法の観念との三位一体の国家的行為体の「国家理性」(the reason of the state)の実現を図るとされているが、本性は権力政治であることに間違いはない。ただ、こうした国際関係は、人民の抵抗を受けて、次第に変貌してきている。
次には「国際関係」が働きかける対象として正面から登場している「地域」である。ところで「地域」という概念もまた一筋縄ではいかない存在である。日本に地域研究がアメリカから移植された当座の「地域」は、英語のareaに対応した概念であった。しかし、その後の多くの用例では、areaは次第にregionにとって代わられるようになっている。そもそもareaは一定のきまった地域の英語表現であって、area studyといえば、ある国ないし国家の領域の研究を意味している。すなわち、日本研究とかアメリカ研究とかいった類である。だが、今や、「地域」は、国家領域に限定されるものではなく、既存国家の枠を超えて、あるいは逆に国家内に国家よりも小規模なものとして存在するものとなっており、さらには、国家内外の諸地域が、国家の存在はそのままにしてつながりあう状況も生まれている。
第三には、これらの研究に欠かせることのできない要因として、差時性、言い換えれば歴史性が不可欠な要因として存在する。このことは、すでに上記の議論の中に現れているが、要するに、国際関係学は、一般理論としては成立しえないということである。これについては、すでに別の機会に自著(『国際関係学原論』岩波書店、二〇〇三年)で論じたので、ここには繰り返さないが、要するに近代国家体系を本質とする国際関係は、列強間の権力政治を諸人民の営みに押し付けようとして抵抗に会ってきたのであり、近代から現在にいたる歴史の変遷の中で、変容する相手を前に、自らも変容しながら支配を貫いてきたといえるのである。近代欧州に出現した列強間の権力政治は、小規模国家や地方権力を抑え込み、非ヨーロッパ世界を制覇することによって支配を確立したが、諸人民の抵抗を受けることによって忽ち自らを変容させながら支配を貫徹する方策に転身していくことになった。他方諸人民の側では、国民国家の形成、国際組織の形成、非国家レベルでの抵抗、脱国家レベルでの連帯組織の形成などをつうじて、変身する列強政治への抵抗を組織してきたといえるのではないか。この鍔迫り合いの記録をこそ、「地域と国際関係」をテーマとする本論集の企図するところなのである。