前書きなど
はじめに 本書の特色
単に山という表現が、たとえば立山という固有名詞に転じたとき、単に坂という言葉が道玄坂という固有名詞で提示されたとき、あたかもモノクロームが色彩を帯びたような変化が現れるでしょう。固有名詞という翼を歌が得た瞬間に明らかな飛翔が始まり、その短歌は躍動します。認識の位相が変わり、鑑賞も深まります。
私たちの先人や現代人が、見えるものに固有の名を与え、親しみ、生活の一部に位置づけてきたのですから、それらを通じて読者の意識が目覚め、感覚が背伸びをするのは当然です。
固有名詞を、あらためて短歌のツールとして捉え直しますと、古来、多くの歌人たちがいかにさまざまに取り組んできたかがさらに興味深く見えてきます。歌人の眼に映った対象が生き生きとしたエピソードとして微笑みかけてきます。
そんな観点から、古今東西の歌を五人の実作者が探索し、収集し、吟味して編集に当りました。自然の観察はもとより、史蹟に寄せる追懐、社会や古今の文化流行との接触、それらに携わった多くの人々、また、それらに伴う感興をさぐりました。ここにある短歌は、ひとりひとりの歌人の関心や信条の反映であり、日常への愛着であり、追究している真善美の片鱗であるといえます。
僅々一〇〇〇首の厳選という課題には自ら定めたとはいえ大いに心を悩ませました。漏れや偏りを最小限にするように、万葉から現代のSNSに弾む歌まで、さまざまな文化の枝葉を手に取って眺めました。いわゆる歌人の作にとどまらず、広く社会に生きる人々の歌も取り込みました。作者の感性が対象をとらえ、愛着を以て我が歌に引き込む過程に思いを馳せながら鑑賞していただきたいものです。
本書の配列は、まず、身近な周囲すなわち社会を構成する固有名詞を眺め、ついで、文化的事物・事象を凝視し、それを生み出し支えている人々に思いを馳せ、さいごに全てを取り巻く自然という順に固有名詞を見ていただけるように整えました。
固有名詞は作者の関心の方向が実に多岐さまざまであるので、随所にヒント・解説を加えて平素疎遠である分野への便宜を図りました。短文のため言い尽くせていない憾みもありますが、ここは諸賢のご判読にお委ねしたいと思います。
ざくざくぞろぞろ語群はページからあふれ出ています。そのひとつひとつが、人々のそのときそのときの人生の息吹であり、生活時間の半券だといえましょう。是非、座右に置かれて折々、鑑賞や実作の友としておつきあいただければ幸甚であります。
日本短歌総研 主幹 依田仁美