目次
日本語版序文
はじめに レイシズムは生死に関わる問題である
序章 帝国の論理
人種資本主義
植民地時代への郷愁
人種家父長制
「レイシズム終焉後」
第1章 「我は白人である、ゆえに我あり」
「カント、そんなはずはないだろう」
白人のアイデンティティ・ポリティクスとしての啓蒙主義
知の脱植民地化
白人至上主義の世界
第2章 ジェノサイド
昔むかし、ジェノサイドがありました
西洋の基礎
セトラー・コロニアリズムはジェノサイドである
ホロコーストは近代である
植民地支配後のジェノサイド
第3章 奴隷制
奴隷制の遺産
三角貿易
西洋のシステム
今こそ賠償運動を
第4章 植民地主義
フェアトレードなんていうものはない
腐敗した「開発」
産業力を奪われたインド
アメリカ帝国
第5章 新時代の夜明け
「白人の責務」
「レイシズム終焉後」の帝国主義
第6章 非白人の西洋
中国によるアフリカ争奪
帝国の建設を担うレンガ、ブリックス
腐敗したシステム
第7章 帝国民主主義
啓蒙主義2.0
ところで、それは誰の経済なのだろうか
帝国民主主義
第8章 鶏はねぐらに帰ってくる
白人性の報酬
東方を注視せよ
帝国の終焉
謝辞
訳者解説[荒木和華子・渡辺賢一郎]
訳者あとがき[荒木和華子]
原註
索引
前書きなど
訳者解説
(…前略…)
本書は「帝国の新時代」を迎えている現代の構造を、レイシズムと植民地主義という柱から読み解いている。扱う時代と地域の縦横軸の範囲が広大であり、歴史研究を専門とする訳者らからすると手に汗をにぎる場面が少なからずある。しかし、「帝国」が姿形を変えて繰り返し出現し「健在」である理由を、荒削りながらグローバル・ヒストリーとして描き出そうとする著者の動機、背景、理論からは学ぶところが多いにある。帝国による支配をめぐる争い、そして実際の戦争状況のなか今を生きる私たちが目をそむけてはならないこと、声を上げていかねばならないこと、それらの本質について筆者は闘いの現場に身を置きつつ目を凝らし、誰よりも声を高く張り上げている。
また本書は、これまでの西洋中心主義的な平和研究におけるジェノサイド概念について手厳しく批判している。それは第2章全体をかけて説明されるように、「西洋でホロコースト以前にジェノサイドの概念がなかったのは、この用語が人間以下の存在には適用されず、ヨーロッパ人が遭遇したもの」(すなわち「黒や褐色」の人びとや先住民)は「最初から非人間的存在だと決め込んでいた」(一〇九頁)ためであるとする。例えば、コンゴではレオポルドの統治下において、全人口の約半数である一千万人が殺害されているが、特定の民族や人種を根絶する目的で殺戮行為が行われていない場合にはジェノサイドの定義に当てはまらないという理由から議論になる。レオポルドは自らの私腹を肥やすために労働者としての先住民を暴力的に支配しようとしたのであり、全人口の根絶を意図していなかったので、コンゴの例はジェノサイドではないとみなされる。しかし、これは植民地下での暴力がいかに過小評価されてきたかを物語ってもいる。まさに、「『黒や褐色』の人びとの死は、単に知的な価値が低いだけなのだ」(一一二頁)。換言すれば、「ジェノサイドという言葉が西洋で誕生したのがホロコーストの時代からという事実が、この問題の十分な証拠である。植民地時代に何億人もの『野蛮人』を組織的に殺害したことは、新たな概念の創出には値しなかった。残念ながら、『黒や褐色』の人びとの大量殺人について注目すべき点はほとんどなかった」(一〇九頁)のである。
そしてそれは二一世紀の現在でも継続しており、ジェノサイドの被害者認定を受けられるのは「人間」カテゴリーに含まれることが前提視される国際社会のメンバーであり、「黒や褐色」の人びと(つまり西洋中心的な人種によるヒエラルキーの底辺に位置づけられる人びと)や国際社会の構成員として認識されない人びとの被害や犠牲については、(所与であるはずの人権が認められていないため)コンゴの事例と同様その都度わざわざ議論されねばならない。まさに、序文で筆者が「レイシズムは生死に関わる問題である」と主張する通りである。命の価値の格差がれっきとして存在している。つまり、レムキンがユダヤ人に対するホロコーストを「ジェノサイド」と名付けたことにより、それ以外の民族や人種に対する残虐な殺戮行為と同根であったとしても区別されただけではなく、ヨーロッパ人が被害者でない場合には等閑視されるという事態を引き起こすこととなったのである。このようなアンドリューズによる分析と洞察は言語論的転回後の批判的人種理論研究の真骨頂と言えよう。
これはまた、世界の歴史を「アフリカ」からラディカルに問い直す試みでもある。私たちがよく知る世界史の教科書で個別に登場する「大航海時代」(これは日本の歴史学独自の名称であり、英語では「発見/探検の時代」という)、奴隷制、列強による帝国主義政策と植民地支配といったすべてのタームが、アフリカに住む/住んでいた/ルーツを持つ人びとを踏みつけにしてなされたという点で分かちがたく結びついていることを明示する。それはそうだろうと思う方でも、欧米とアジアの関係史の土台にアフリカがあるのだと聞けばどうだろうか。教科書には巨大な勢力圏を誇ったユーラシア大陸の中部以東の地域(中国、インド、イランなどの諸帝国)が一九世紀に至って欧米に世界経済の首位の座を明け渡していく流れを、一八世紀の欧米における啓蒙思想、一九世紀の国民国家の成立、産業革命と科学技術の進歩、そして民主主義の進展といったタームによってなんとなく説明するかのごとき態度が見てとれるが、その逆転を説明するために必要な視点、すなわちアフリカを踏みつけにし破壊と収奪をし続けたことによって欧米中心の世界のシステムが可能となったという視点が決定的に欠落していることを、著者は強い筆致で訴えている。なぜ欠落しているのかと言えば、世界構造においてレイシズムが果たしている役割に目をつぶっているからである。世界史をラディカルに問い直すというのは、単に歴史の語り手の主役を切り替えるということだけでなく、本書のように歴史を根のある底の底から(ラディカルとは本来そういう意味である)解体する視点を持つということなのだ。
(…後略…)