目次
巻頭の言葉[ザマスワジ・ラミニ=マンデラ(Zamaswazi Dlamini-Mandela ネルソン・マンデラの孫娘)]
序[サーム・フェンター]
手紙についての解説[サーム・フェンター]
ネルソン・マンデラの囚人番号一覧表[サーム・フェンター]
プレトリア地方刑務所で書かれた手紙(1962年11月~1963年5月)
ロベン島重警備刑務所で書かれた手紙(1963年5月~6月)
ロベン島重警備刑務所で書かれた手紙(1964年6月~1982年3月)
ポールズムア重警備刑務所で書かれた手紙(1982年3月~1988年8月)
タイガーバーグ病院とコンスタンシャバーグ・メディクリニックで書かれた手紙(1988年8月~12月)
ヴィクター・フェルステア刑務所で書かれた手紙(1988年12月~1990年2月)
後注
本書に収録した手紙の収蔵先
謝辞
版権使用許諾への謝辞
補遺Ⅰ 用語解説
補遺Ⅱ 法廷闘争と収監に関わる年表
補遺Ⅲ 南アフリカの地図(1996年頃)と本書に関係する地名
訳者あとがき
前書きなど
巻頭の言葉――ザマスワジ・ラミニ=マンデラ(Zamaswazi Dlamini-Mandela ネルソン・マンデラの孫娘)
私が生まれたとき、既に17年間獄中にあった祖父ネルソン・マンデラは自分の62歳の誕生日の直後に、妻であり私の祖母であるウィニー・マディキゼラ=マンデラ(Winnie Madikizela-Mandela)に手紙を送っています。その手紙には、お祝いの電報やカードの送り主の名前が列挙されていました。祖父の娘で私の叔母のジンヅィ(Zindzi)、私の姉のザジウェ(Zaziwe)に私自身、それに祖父が手紙を待ちわびていた人たちの名前が書かれていました。「世界中の友人たちから送られてくるはずのカードは、これまでに一通も届いていません」と、冗談を言いながらも、「でも、こんなに長い間獄中にいるのに、これほど大勢の友人たちが監獄の中にいる私たちのことを思っていてくださるかと思うと元気づけられます」と書いています。外の世界との交流がどれほど祖父を支え、また、いかに祖父がこうした手紙を待ち望んでいたかが、この本を読むとわかるのですが、今ここに挙げた手紙の一部はまさにその一例です。
収監中に、祖父は何百通もの手紙を書きました。本書に収められた手紙を読んだ読者は、政治活動家であり囚人であったネルソン・マンデラを知るだけでなく、弁護士で、父親で、夫で、おじで、友人であったネルソン・マンデラを親しく知ることになり、そのマンデラが日常生活から切り離された極度に長い獄中生活によって、こうした役割を担うことができなかったことがわかります。読者は、南アフリカの歴史の中の極めて暗い時代を再訪することになります。それは、南アフリカにいる全アフリカ人の抑圧を目指したアパルトヘイト体制に反対して囚われた人々が恐ろしい刑罰を耐え忍んだ時代です。手紙の中で、祖父は祖母が受け続けた迫害を伝えています。5人の子どもたち(テンビ(Thembi)、マハト(Makghatho)、マカジウェ(Makaziwe)、ゼナニ(Zenani)、ジンヅィ(Zindzi))にとって、父親が不在で、連絡もほとんど取れず、それぞれ16歳にならなければ会うこともできないという状況がどんなに辛いものであるかを祖父は心配しています。16歳にならなければということを知ったとき、私は本当にひどいと思いました。祖父は、獄中から父親としての役目を果たそうと頑張りましたが、できませんでした。
(…中略…)
祖父は、自らの過去つまり私たちの原点を決して忘れてはならないと、私たちに語り続けました。祖父母やその同志たちが求めて闘った民主的な社会は、人々が苦しみ、多くの命が失われた末に達成されました。本書は、世の中は容易に憎しみの場所に戻りうることを示しています。一方で、人の復元力は耐えられない状況をも克服しうることも証明しています。投獄されたその日から、祖父は挫けたり動揺したりすまいと決意しました。それだけではなく、仲間の囚人たちともども、人間の尊厳を守って処遇されるよう何度も主張しました。
(…中略…)
この書簡集は、かつて私を悩ませた多くの問いに答えてくれました。祖父は、どうやって27年間を監獄で生き延びたのだろうか。何が彼を闘い続けさせたのだろうか。祖父自身の言葉によって、その答えを見つけることができます。