目次
はじめに
第Ⅰ部 揺籃期のハプスブルク家、貧乏伯爵から神聖ローマ皇帝即位まで
1 神聖ローマ帝国――ドイツ誕生と分裂
2 ルドルフ・フォン・ハプスブルク――偉大な俗物
3 アルブレヒト1世――ハプスブルク家の暗黒の日
4 カール4世の金印勅書――神聖ローマ帝国の新たな礎
5 ルドルフ4世と大特許状――偽書快走
6 フリードリヒ3世――波乱に満ちた半世紀の統治
7 マクシミリアン1世――伝統の帝国理念と現実のはざまを生きた皇帝
[コラム1]ブルゴーニュ公国
[コラム2]マクシミリアン1世がもたらしたハプスブルク家の「ブランド」――金羊毛騎士団
第Ⅱ部 スペイン・ハプスブルク家の生成とその終焉
8 カトリック両王とレコンキスタ――8世紀も続いた壮大な宗教戦争
[コラム3]カトリック両王が求めるカトリック王国
9 カトリック両王の政略結婚作戦――その予期せぬ展開
[コラム4]フアナ・ラ・ロカとフェリペ1世
10 カタリーナ・デ・アラゴン――イングランドを大きく変えた国王の結婚問題
[コラム5]スペイン異端審問のビッグデータ
11 カルロス1世(カール5世)――スペイン・ハプスブルク家の創始者
[コラム6]パヴィアの戦い――邪悪な戦争
[コラム7]サッコ・ディ・ローマ(ローマ掠奪)
12 第一次ウィーン包囲――敵の敵は味方
13 フェリペ2世――家族に恵まれなかった書類王
14 マドリード遷都――田舎町から帝都へ
15 無敵艦隊――本当に「無敵」だったのか?
16 エル・エスコリアル修道院――「聖体崇敬」の理念を形にした別格の建造物
[コラム8]フェリペ2世のポルトガル王位継承
[コラム9]ドン・カルロス――悲劇の王太子
[コラム10]天正少年使節――地の果ての国から来た子どもたち
17 八十年戦争(オランダ独立戦争)――ネーデルラントの分裂
18 フェリペ3世とレルマ公爵――その歴史的評価をめぐって
[コラム11]慶長遣欧使節――伊達政宗「太平洋交易」の夢と挫折
19 フェリペ4世――恋多き惑星王
[コラム12]カタルーニャの叛乱/刈り取り人戦争
[コラム13]ポルトガルの独立
20 「薄幸の王」カルロス2世――大帝国の落日
[コラム14]ハプスブルク家の系統分裂と両系統の提携――儚いものよ、皇帝の兄弟愛
21 スペイン継承戦争――スペインにおけるハプスブルク家統治の終焉
第Ⅲ部 カトリックとプロテスタントの熾烈な対立
22 宗教改革――宗派対立がハプスブルク家にもたらした苦難
23 ヴォルムス帝国議会とシュパイアー帝国議会――カトリックとプロテスタントが初めて対峙した舞台
24 シュマルカルデン戦争――皇帝カール5世の退位
25 「甲冑に覆われた帝国議会」とアウクスブルクの宗教和議――最初の宗教戦争とその結果
26 プラハ窓外放擲事件――近世ハプスブルク国家の転換点
27 ドイツ三十年戦争――近代の扉
[コラム15]ウェストファリア条約
28 再カトリック化――ハプスブルク家統治に安定をもたらした宗派統一
第Ⅳ部 16~17世紀のオーストリア・ハプスブルク家
29 フェルディナント1世――兄と駆け抜けた生涯
30 マクシミリアン2世――「宗教和議」を体現した皇帝
31 ルドルフ2世――寓意のなかの普遍君主
32 マティアス――野心が招いた兄弟喧嘩
33 フェルディナント2世――カトリックの大義に従った皇帝
34 フェルディナント3世――和平をもたらした皇帝
第Ⅴ部 18世紀のオーストリア・ハプスブルク家
35 レーオポルト1世――ハプスブルク家大君主
36 第二次ウィーン包囲――バロック都市への変貌
37 ヨーゼフ1世――意気軒昂で自負心の強い皇帝
38 カール6世――あまりにもラテン的な皇帝
39 ベートーヴェンゆかりのシュレージエン――オーストリア継承戦争
40 マリア・テレージア――ハプスブルク君主国を守護した女神
41 フランツ1世――「心優しき」ハプスブルクの名脇役
42 シェーンブルン宮殿――フランツ1世の科学の園
[コラム16]カウニッツ――外交革命
[コラム17]七年戦争――「世界大戦」
43 マリー・アントワネット――不滅の恋
44 アンビヴァレンツなヨーゼフ2世――啓蒙君主?専制君主?
45 レーオポルト2世――啓蒙改革のもう1つの可能性
第Ⅵ部 19世紀のオーストリア・ハプスブルク家
46 オーストリア帝国の成立と神聖ローマ帝国の終焉――ナポレオンに立ち向かったフランツ2世の苦闘
47 ウィーン会議――会議は踊る、されど会議は進まず
[コラム18]ウィーン体制
48 フランツ・ヨーゼフ1世――ハプスブルク家最後のあだ花
[コラム19]メキシコ皇帝マクシミリアン1世――ハプスブルク家の矜持
49 皇妃エリーザベト――美貌の皇妃が現代に問いかけるもの
50 皇太子ルドルフ――「マイヤーリング」の謎
51 アウスグライヒ――ハンガリーとの妥協
52 オーストリアに海軍と植民地?――ウィーンに残るハプスブルク家の夢の跡
第Ⅶ部 20世紀のオーストリア・ハプスブルク家
53 サライェヴォ事件――ハプスブルクが自ら決断した戦争
54 フランツ・フェルディナント――サライェヴォ事件の犠牲者の実像
55 ハプスブルクと第一次世界大戦――国家としての実体を失った帝国
56 巡洋艦「カイゼリン・エリーザベト」と日本――青島の戦いと捕虜になったオーストリア=ハンガリー兵
57 サンジェルマン条約、トリアノン条約――戦勝国に押しつけられた平和秩序
58 帝国の清算――誰が公文書を保管するのか
59 ハプスブルクとEU――諸民族の相克と統合
60 オットー・ハプスブルク――ハプスブルク帝国最後の皇太子
ハプスブルク家系図
参考文献
執筆者紹介
前書きなど
はじめに
ハプスブルク家の起源は11世紀と言われている。彼らが定住していたのは、現在のドイツ、フランス、スイスの3か国が境を接するライン川上流の見晴らしのよい丘陵地域に建っていた「ハビヒツブルク城(鷹の城)」の近郊一帯であって、これが増改築されてやがて「ハプスブルク城」と呼ばれ、この地域を支配していた一族の名前の由来となった。したがって、1220年、もしくは1230年創建といわれるこの城こそ、ハプスブルク家の揺籃の地であり、活動の拠点地であった。現在も蔦の絡みついた高い城址の石垣や櫓やぐらなどは、往時をしのぶよすがとなっている。この城の一帯に地歩を固めたハプスブルク家は、十字軍遠征で没落した豪族や騎士階級、嗣子がいなくて男子相続者の絶えた豪族などを自陣に吸収するという手段によって、あるいは政略結婚なども活用し、次第に勢力を涵養していき、神聖ローマ帝国の最末端部に位置する伯爵格の小領主となった。
ところで、当時のイングランドやフランスのように王位を一族で代々受け継ぐ世襲制が確立していたのとは異なり、神聖ローマ帝国皇帝の帝位は、3名の大司教(マインツ、ケルン、トリーア)と4名の世俗君主(ボヘミア王、ブランデンブルク辺境公、ザクセン大公、ライン宮中伯)が選帝侯となり、皇帝選挙の投票で決まる。7名の選帝侯の選挙でまず「ドイツ王」が「皇帝予定決定者」として選ばれ、司教都市アーヘンでドイツ王として即位し、次いでローマ教皇によってローマのサン・ピエトロ大寺院で戴冠され「皇帝」に即位するのが通例である。通例といえば、3名の神の僕しもべたる大司教を嚆矢として、7名の選帝侯は、途轍もなく大掛かりな金権選挙となる皇帝選挙に際して、このときとばかりに、恥も外聞もかなぐり捨て貪欲さを遺憾なく発揮したのだった。
(…中略…)
繰り返しになるだろうが、ハプスブルク家は、第一次世界大戦の終結時の1918年11月までの約700年間にわたって子々孫々、脈々と君主国家を継承してきたが、その間、ハプスブルク家が歴史上逼塞する時期もあった。したがって、国名も、ハプスブルク帝国、ハプスブルク君主国、ハプスブルク大公国、ハプスブルク伯爵国と様々に呼ばれていたが、「ハプスブルク」という家名は不動であった。つまり家名は国名となっていたのだった。
ちなみに、19世紀から20世紀にかけて、「地球の地上の4分の1」を自国の領土であると豪語し、20世紀の2回の世界大戦に勝利した大英帝国は、エグバート王(在位802~839)を開祖とするウェセックス家から、現在のチャールズ王のウィンザー家まで、都合14王家が交代している。また20世紀において軍事に関しては信じられないほど低劣であるが、卓越した外交的辣腕を振るって生き伸びたフランスは、ピピン短軀王(在位751~768)を開祖とするカロリング家からボナパルト家=第2帝政(1870)まで、都合13王家が交代している。こうしてみると、ヨーロッパ2大列強といえども、意外と脆弱かつ短命な王家であった。それ以外のヨーロッパの国々は、地勢的にも陸続きだったためにたえず戦争や紛争が発生し、王家は一言でいえば、泡沫王家に過ぎなかったといえよう。
20世紀ヨーロッパに数多の王家が存在したが、再度強調するが、国名にその国を統治している王家の家名が堂々と使われていたのは、ハプスブルク家だけである。それゆえ、「ハプスブルク家」という家名を本書の書名にしたのだった。このユニークな王家を紐解いてみるのはおもしろいはずで、どうかこの「未知な国」の中に分け入ってみてほしいと思う。