目次
「イスラーム・ジェンダー・スタディーズ」シリーズ刊行にあたって――7『日本に暮らすムスリム』
はじめに
第Ⅰ部 日本でムスリマ/ムスリムとして生きる
第1章 ムスリム理解を考える――ムスリム“も”食べられるインクルーシブ給食と日本人ムスリマのヒジャーブの事例から[佐藤兼永]
コラム1 日本の大学で「イスラーム」を教える[小野仁美]
第2章 「ムスリムであること」とどう向き合うか――第二世代の語りから[クレシサラ好美]
コラム2 SYM名古屋モスク――日本中のみんなに伝えたい、一人じゃないよ[カン夢咲/パイン・ゼイイエトゥン/クレシ明留]
第3章 若いムスリム女性のアイデンティティ形成――日本とパキスタンにルーツをもつ女性たちの事例から[工藤正子]
コラム3 日本の化粧品市場におけるハラール認証の実効性――インドネシア出身ムスリム住民への調査から見えたもの[武田沙南/石川真作]
第4章 日本でムスリムとして子どもを育てる[アズミ・ムクリサフ]
第5章 ヴェールの可視性から考える在日外国人ムスリム女性の葛藤[沈雨香/アキバリ・フーリエ]
コラム4 中古車・中古部品貿易業と千葉のスリランカ人コミュニティ[福田友子]
第Ⅱ部 歴史と社会制度
第6章 見えにくいものを見るということ――日本のイスラーム社会の概要と実態把握上の課題[岡井宏文]
コラム5 日本のイスラーム建築[大場卓/深見奈緒子]
第7章 日本の入国管理制度とグローバリゼーション――とくにムスリムの定住の観点から[伊藤弘子]
コラム6 あるクルド人家族との出会いから[温井立央]
第8章 在日ムスリム定住化までの様相――イラン人とトルコ人を比較して[森田豊子]
コラム7 インドネシア人技能実習生と考える地域の未来[西川慧]
第9章 インドネシア人女性の生きる闘い――エンターテイナーたちのライフヒストリー[佐伯奈津子]
コラム8 日本-トルコ交流略史[三沢伸生]
第10章 「日本を懐かしむトルコ人」との邂逅――日本人特派員が描いたイスタンブルのタタール移民[沼田彩誉子]
コラム9 1920~40年代の神戸のテュルク系ムスリムと教育活動[磯貝真澄]
第Ⅲ部 受け入れと共生
第11章 保健医療分野におけるムスリム対応とモスクによる取り組み[細谷幸子]
コラム10 鹿児島マスジド――地方の外国人散在地域におけるムスリムの居場所[森田豊子]
第12章 ヨーロッパの「移民問題」から何を学ぶか[石川真作]
コラム11 日本のムスリムと埋葬[岡井宏文/森田豊子]
第13章 日本とカナダの難民認定――アフマディーヤ・ムスリムのある一家を事例として[嶺崎寛子]
特論 アフガニスタン女性からのSOSを読み解く[小川玲子]
参考文献
前書きなど
はじめに
本書の目的は、日本に暮らすムスリム・ムスリマ(イスラーム教徒。ムスリムは男性形、ムスリマは女性形。本書では、ムスリムを男女双方を含む言葉としても用いる)の諸相を、日本の様々な地域、トピック、視点を通じて描き出すことにある。そしてジェンダーの視座は、本書全体に重低音のように常に響いている。
日本は国勢調査で宗教統計と移民統計(出生地とは異なる国に居住している者、ここでは外国で生まれて日本に居住する人の統計。国籍は問わない)を取っていない。そのため日本のムスリム人口などの統計的な全体像は、在留外国人統計等を用いて推計する以外に方法がなく、正確にはわからない。そして日本のムスリムには社会に対して声を上げる人もいれば、上げない人もいる。モスクとかかわりをもたないムスリムや、結婚時に改宗したが離婚して棄教した元ムスリマなどは可視化されにくく、本書でも取り上げられていない。マジョリティの目に見えていることがすべてではない、というジェンダー研究の大事な成果を思う。取りこぼしたことはあるが、それは本書の価値をいささかも減じはしないだろう。なお、本書ではムスリムと自称する者をムスリムとし、主流ムスリムからは異端とされる宗派も論じる。
人間は数字ではない。編者が専門とする文化人類学は、量的研究ではなく質的研究を得意とする学問である。すべては個人から始まる。第二派フェミニズムの金言の通り「個人的なことは政治的なこと」なのである。一人ひとりのムスリムの声に耳を傾け、その困難や喜び、悩み、希望を知ることは、社会構造や政治を問うことと常につながっている。
そして日本に暮らすムスリムは実に多様で多彩で、とても一括りにはできない。たとえば、ムスリムは日本ではマイノリティだが、1世の出身国の多くではマジョリティである。マジョリティとしてイスラーム文化(これも地域差が大きい)の中で育った1世は、日本でムスリムとして、つまりマイノリティとして育つ2世と、イスラームに関するスタンスや感性が相当違う(さらにそのことに自覚的でないことが多い)。1世は異国で生活基盤や家庭を築くためや、信仰や生活習慣を守るための苦労も努力もしただろう。それは自らの決断に基づくもので、様々な意味でその経験は、宗教を異とする他の移民たちの経験とも重なる。
一方の2世は自らの境遇を選べない。彼らは宗教2世―「特定の信仰・信念を持つ親・家族とその宗教的集団への帰属の元で、その教えの影響を受けて育った子ども世代」(塚田 2021)―として育つ。宗教2世問題を抱える2世もいる。宗教2世問題とは、「当事者が、その帰属や生育環境、家庭と集団における規範や実践の規定力・影響力ゆえに、何らかの悩み・苦しみ・つらさを抱えて生きていかなければならない」ことを指す(塚田・鈴木・藤倉 2023:10)。親による強制や、(親が外国にルーツをもつ場合は)親の文化や宗教理解の押しつけ、イスラームに対して日本社会のマジョリティが抱く偏見、宗教による「自由」の制限などがときに2世を悩ませる。生まれ育つ日本でマジョリティ側から他者と見なされつづけることには、1世とは別の大変さがある。
また日本人の改宗ムスリムは、多くの場合移住の経験も、宗教2世として育った経験もない。しかし日本人改宗ムスリムは今まで馴染んだ生活習慣のいくつかを改宗によって手放し、ムスリムとしての生活習慣を新たに身につける。そのように生活を変えた経験は、生まれながらのムスリムの1世や2世にはない。
さらに、日々のムスリムとしての経験を左右する重要な要素の一つにジェンダーがある。2世男性と2世女性には共通点も多いが、ジェンダーによって異なる経験もまた多い。一般に、水泳の授業に出られない、門限が厳しいなど、2世の女性の方が男性よりも親からの制限が多い。1世の日本語能力や就労経験もジェンダーによってはっきり異なる傾向がある。移民やその子どもたちの経験はジェンダー化されているのだ。日本人改宗ムスリムの経験も同様である。ムスリムの国際結婚は、日本人女性と外国人男性のケースが逆よりはるかに多い。必然的に、結婚による改宗も女性が多くなる。
ムスリマ、とくにヴェールをまとうムスリマが他と異なるのは、その可視性である。ヴェールは実際、日本では有徴な衣として機能する。日本ではそれはイスラームの、つまりは異文化の徴しるしであって、ムスリムがマジョリティの社会とは異なる社会的な反応や影響をもたらす。ある日本人ムスリマは「ヴェールをしてなかった頃はバスの運転手は〔乗り遅れまいと〕走ってたら待ってくれたのに、被ったら待ってくれなくなった」と語った。「〔金曜礼拝に行くために〕民族衣装を着て自転車に乗っていると高確率で職質〔職務質問〕される」と語った外国にルーツをもつ男子高校生は、制服で自転車通学をする際に職質されたことはないという。欧米ほどではなくても、ムスリムであることが可視化されると、ある種の偏見やイスラモフォビア(イスラームやムスリムへの嫌悪)に遭遇する確率は上がる。一方で、欧米と異なりイスラモフォビアが少なく、人々が他人の宗教に不干渉なことを、日本での暮らしやすさとして評価するムスリムもいる。マジョリティに紛れて目立たずに暮らせるかどうかによっても、状況は異なる。そしてそれは、ヴェールの有無、外国にルーツをもつかどうかなどに左右される。
彼ら/彼女らの経験は相当に異なる。イスラームへの理解も個々人やその出身地域によって異なるし、日々の実践に対するスタンスや理解も様々である。しかし皆「日本に暮らすムスリム」である。彼ら/彼女らには「ムスリムという自覚がある」以外の共通点はない、と考えてもいいくらいだ。
時代、ジェンダー、世代、母語、日本語能力、居住地、階層、在留資格、国籍、民族……諸々が交差するところにムスリムはいる。それぞれに異なる経験をできるだけ様々な視座から描き出そうというスタンスで、本書は編まれている。好きなところから読み進めてほしい。
(…後略…)