目次
まえがき[リチャード・フラナガン]
翻訳者の物語――山並みを見晴るかす窓辺[オミド・トフィギアン]
免責事項
第一章 月明かりの下で/不安の色
第二章 山々と波/栗の木と死/あの川……この海
第三章 煉獄の筏/月は恐ろしい真実を語るだろう
第四章 軍艦での瞑想録/我らがゴルシフテは実に美しい
第五章 クリスマス(島)の物語/流浪の星へと追放された国なきロヒンギャの少年
第六章 さまよえるコリースたちのパフォーマンス/メンフクロウの監視
第七章 爺さん発電機/首相とその娘たち
第八章 列という名の拷問――マヌス監獄の論理/幸福な牛
第九章 父の日/巨大なマンゴーの木と優しい巨人
第一〇章 コオロギたちの合唱、残酷な儀式/マヌス監獄の神話的地形
第一一章 カモミールに似た花/感染症――マヌス監獄症候群
第一二章 黄昏時/戦争の色
翻訳者の考察[オミド・トフィギアン]
注釈
日本語版刊行に寄せて[オミド・トフィギアン]
山よりほかに友はなし――その背景[テッサ・モーリス=スズキ]
監訳者あとがき[一谷智子・友永雄吾]
著者・訳者・寄稿者紹介
前書きなど
まえがき
『山よりほかに友はなし』は、オスカー・ワイルドの『獄中記』、アントニオ・グラムシの『獄中ノート』、レイ・パーキンの『苦境へ』、ウォーレ・ショインカの『人間の死』、さらにはマーティン・ルーサー・キング・ジュニアの『バーミンガム刑務所からの手紙』など世界中の監獄文学を集めた本棚に加えるべき一冊である。
若きクルド詩人ベフルーズ・ブチャーニーは、長期間に及ぶ監禁の苦痛に満ちた極限状況下で、このペルシャ語の本を書き上げた。それは勇気と創造への強い思いが可能にした一つの奇跡である。本書は紙やパソコン上に書かれたのではない。マヌス島の収容所の監視の目を掻い潜って、膨大な量のテキストメッセージとして、携帯電話に打ち込まれたのだ。
私たちはまず、その創作の困難さ、つまりほとんど不可能に近いことを可能としたことに思いを致し、ベフルーズ・ブチャーニーが成し遂げた功績を認めるべきだろう。オーストラリア政府は、庇護希望者の人間性を奪おうとありとあらゆる手を尽くしてきた。彼らの名前や物語は、私たちから遠ざけられている。ナウルやマヌス島の動物園のような過酷な状況下で彼らは生きている。彼らの命は、その意味を奪われてしまっているのだ。
(…中略…)
ベフルーズ・ブチャーニーは、奇妙で恐ろしい書物を世に送り出した。そこには、オーストラリアの二大政党である自由党と労働党が、その残酷さにおいて大っぴらに競い合ってきた移民政策の囚われの身となり、マヌス島に五年間収容された若者としての彼の運命が記録されている。
オーストラリア人にとって本書を読むことは、この上なく辛いものだ。我々は良識、親切、寛大、平等主義という価値を重んじ、それを誇りに思う国民である。しかし我々が誇るべきこうした国民的美徳は、飢え、不潔、殴打、自殺、殺害を記すブチャーニーの言葉の中には全く見当たらない。
彼が描くマヌスにおけるオーストラリア政府当局の難民への態度は、第二次大戦中に私の父と仲間のオーストラリア兵が戦争捕虜として被った日本軍の仕打ちについて、父が語ってくれた時の痛みを思い出させた。
そうした犯罪を今現在において起こしているのが、まさに我々であるならば、我々は一体どうしてしまったと言うのだろうか?
本書は清算を要求する。誰かがこうした犯罪に対して応答しなくてはならない。もし、この事態から目を反らそうとするのであれば、歴史が我々に教えてくれる一つの確かなことは、マヌス島やナウルでの不正義はいつか、これまで以上に大きく悲劇的な規模において、オーストラリアで繰り返されるようになるだろうということである。
本書が目撃したおぞましい苦しみに対して、誰かが責任を負わねばならない。そして投獄されるべきなのは、無実の人々ではなく、その者たちなのだ。
けれども本書は、単に誰かを糾弾するだけの作品ではない。本書は、言葉がいまだにどれほどに重大なものかを我々に示してくれた若き詩人の完全な勝利の証である。オーストラリア政府は彼の身体を拘束したが、彼の魂は自由な人間のそれと何ら変わらない。彼の言葉は紛いもなく我々の言葉となり、我々の歴史は彼の物語への説明責任を求められている。
ベフルーズ・ブチャーニーがオーストラリアに迎えられる日が来ることを私は願う。彼が本著で示してみせたように、作家として。偉大なオーストラリアの作家として。