目次
はじめに
第1章 学知の帝国主義の起源
ハンナ・アーレントと学知の帝国主義
エドワード・サイードと学知の帝国主義
欧米における学知の帝国主義の形成
形質人類学と帝国主義
人種研究と優生思想との融合
第2章 日本帝国主義と学知
日本における帝国主義の形成
日本の植民地になった琉球
ピストルを携えて人類学調査をした鳥居龍蔵
「清野コレクション」と日本帝国主義
「学知の帝国主義者」としての清野謙次
なぜ清野謙次は人骨に執着したのか
第3章 日本における「学知の帝国主義」の誕生
坪井正五郎の日本人種論
金関丈夫の日本人種論
三宅宗悦、中山英司の日本人種論
西北研究所と京都学派の研究者
第4章 沖縄県はなぜ琉球人女性を学術人類館から救わなかったのか――現代的琉球人差別問題の淵源をかんがえる
学術人類館事件の経緯と東京人類学会の関与
学術人類館事件にたいする新聞社の批判と琉球人返還運動
中国人、朝鮮人のケースとの比較をつうじて
現代の「日本人研究者」による学術人類館事件認識の一端
金関丈夫、島袋源一郎と学術人類館事件との関係
第5章 優生学と学知の帝国主義
欧米における優生学と帝国主義
日本における優生思想
日本の形質人類学者と優生学
アイヌ民族と優生思想
現代の優生思想の問題性
第6章 琉球のなかの学知の帝国主義
日本帝国主義のなかの琉球
「琉球処分」は「奴隷解放」なのか
日琉同祖論と日鮮同祖論
言語「同祖論」の戦略
伊波普猷がまなんだ国語学の罠
第7章 伊波普猷と形質人類学者との「共犯」
人類学者としての伊波普猷
鳥居龍蔵による琉球人遺骨盗掘と伊波普猷
伊波普猷の優生学
伊波普猷と「南島イデオロギー」
戦争と伊波普猷
第8章 京都大学はなぜ琉球人遺骨をかえさないのか
なぜ、どのように琉球人遺骨は墓からぬすまれたのか
なぜ京大研究者は琉球人遺骨を返還しないのか
日本人起源論と現代琉球人
第9章 琉球民族遺骨返還請求訴訟でなにを訴えたのか
なぜ京都大学を訴えたのか
奄美人遺骨返還運動
京大の準備書面にたいする反論
京都地裁に提出したわたしの意見書、陳述書
映像によって遺骨盗掘問題をかんがえる
京大研究者による本部町渡久地からの遺骨盗掘
結審後にかんがえたこと
判決を受けて――琉球民族の尊厳回復をめざしてたたかいつづける
第10章 日本人類学会と「骨の人類館」
戦後も盗掘された奄美・琉球の遺骨
なぜ日本人類学会は琉球人遺骨研究を最優先するのか
琉球人遺骨とミトコンドリアDNA研究
日本人類学会と「骨の人類館」
第11章 現代琉球のなかの学知の帝国主義
戦後琉球における学知の帝国主義
米軍統治時代の優生思想
国立台湾大学から沖縄県教育委員会への琉球人遺骨の移管
移管された琉球人遺骨の身元
盗掘された琉球人遺骨の研究
第12章 沖縄県教育委員会はなぜ琉球人遺骨をかえさないのか
台湾原住民族遺骨研究の問題性
遺骨返還をめぐる沖縄県教育委員会との「対話」のこころみ
「沖縄人骨移管協議書」の問題性
学知の帝国主義の拠点としての「国立沖縄自然史博物館」
沖縄県教育委員会が遺骨を返還しない理由
那覇地裁に提出されたわたしの意見陳述書
第13章 琉球先住民族による脱植民地化・反帝国主義運動
琉球人にとって脱植民地化運動とはなにか
脱植民地化のために「先住民族になる」こと
なぜ遺骨を展示し、研究することが植民地主義になるのか
アイヌの先住民族運動からまなぶ
日本政府は本当にアイヌを先住民族としてみとめたのか
結章――先住民族の遺骨をとりもどすことの意味
琉球人の祖先について
なぜ琉球先住民族は国連にいったのか
琉球先住民族による国連活動の成果
日本政府はなぜ琉球人を先住民族としてみとめないのか
国連先住民族の権利に関する専門家機構で琉球民族遺骨問題を訴える
先住民族遺骨盗掘への謝罪と返還の論理
あとがき
索引
前書きなど
はじめに
1879年の琉球併合は、日本政府が軍隊、警察をもちいておこなった、組織的で、計画的な国家侵略である。2022年2月、ロシアがウクライナを侵略し、いまも戦争がつづいている。これは琉球人として他人事ではなく、琉球も日本によって侵略・併合され、その植民地になり、その結果、戦場とされ、おおくの琉球人が殺され、戦後も米軍基地がおしつけられるという「犠牲の構造」のなかでの生活を余儀なくされている。
琉球併合後、日本政府は植民地政府である「沖縄県」を設置した。沖縄県学務課が作成した『沖縄対話』を教科書にして、会話伝習所を開設した。琉球を侵略・併合した日本政府の最初の琉球統治策は、日本語教育という同化政策であった。琉球諸語の教室内での使用を禁止し、日本語を強制する「言語撲滅教育」をおこない、「方言札」によって子どもたちから琉球諸語をうばった。いまから50年前の1972年の「日本復帰」の年、わたしも那覇市内の小学校の教室で「方言札」の罰をうけて、島の言葉をうばわれた犠牲者のひとりである。
言葉は、民族の歴史や文化をつぎの世代にひきつぐ役割をはたす。皇民化教育をおこない、民族の言葉をうばうことで、琉球人の「日本人」への同化をうながし、徴兵、納税、労働等の各局面において琉球人を「天皇の臣民」にかえていった。
戦前は、「方言論争」で有名な沖縄県学務課が皇民化教育の拠点となった。京都帝国大学助教授の金関丈夫は、「福井学務課部長」から遺骨盗掘の「許可」をえたといって遺骨を盗掘した。遺族や地域住民の了解をえておらず、当時の刑法でも違法な行為であった。併合後、移住した「日本人」が沖縄県、県警の幹部に就任し、日本企業が経済支配し、琉球人差別も横行するなど、「日本人」と琉球人との不平等な関係性を利用して、金関は遺骨を盗掘することができたのである。
琉球がうばわれたのは遺骨だけではなかった。琉球併合過程で、日本政府は、アメリカ、フランス、オランダと琉球国との修好条約原本をうばった。それらの原本はいま、外務省管轄下の外交史料館に保管されている。また、そのとき、琉球王府の行政文書である評定所文書もうばわれた。そのおおくは関東大震災で焼失したが、その一部は現在、警察庁、東京大学に保管されている。これらの公文書の窃盗は、琉球が国であった歴史的証拠を島からうばい、「復国運動」、独立運動の「象徴物」としての役割をはたさせないための措置であるとかんがえられる。
日本の政府や大学は、琉球人から琉球諸語、欧米諸国との条約原本、行政文書、遺骨等をうばってきたのである。琉球にたいする日本の植民地政策の一環として骨の盗掘と「研究」がおこなわれた。日琉同祖論を言語学、人類学の観点から証明し、日本の植民地であることを隠蔽し、琉球を地政学的な拠点として利用してきた。
学知の帝国主義とは、権力と科学とを融合させ、帝国主義、植民地主義を合理化するためのイデオロギーである。それは研究と政治との一体化による帝国主義強化のためのツールとして機能する。本書では、琉球における学知の帝国主義の闇のふかさを、琉球人遺骨盗掘問題をつうじてあきらかにする。琉球人遺骨盗掘問題を無視し、みずからの学知の帝国主義を隠蔽し、当事者の人権や信仰を無視して研究をつづけようとする学知(研究者、大学、博物館)がかかえる、いまだに清算されない帝国主義の問題性を詳細に検討する。そして琉球人遺骨返還をこばむ京都大学、沖縄県教育委員会、日本人類学会との「対話と和解」を実現させたい。
なぜ、日本政府は、おおくの住民が生活している琉球を戦場にし、日本軍は沖縄戦において琉球人を虐殺し、集団死を強制したのか。またなぜ戦後、日本政府は琉球において米国による軍事植民地支配をみとめ、「復帰」後も広大な基地をおしつけ、現在も「島嶼戦争」にそなえて、辺野古新米軍基地や自衛隊基地を建設しているのか。それらの疑問をとく鍵が、琉球人にたいする人種差別理論としての優生思想である。伊波普猷をはじめとする「沖縄学」の琉球人エリートも、「日本人研究者」による琉球人遺骨盗掘の「学術的意義」をみとめ、かれらの盗掘を積極的にたすけた。その「学術的意義」とされるのが優生思想である。優生思想にもとづく生物学的な観点から日琉同祖論を確立し、琉球人の同化(進化)をすすめようとした。日琉同祖論は、戦後も「復帰」運動の思想的基盤となり、現在もひきつづき、「内なる植民地主義」の砦となっている。
東京帝国大学の坪井正五郎はじめ、東京人類学会(現在の日本人類学会)の研究者は、琉球にたいする帝国主義を科学的に合理化するために、学術人類館で生身の琉球人を展示し、その骨や血液の調査をおこなうなどして、琉球人を人類学的研究の対象にしてきた。本書では、琉球人遺骨を盗掘し、その返還を拒否している人類学者の優生思想を検討するとともに、「沖縄学」を「琉球人遺骨盗掘」の観点から批判したい。
2018年12月から京都地裁ではじまった琉球民族遺骨返還請求訴訟は、2022年4月に判決がだされ、第一審はおわった。また2022年1月、琉球人遺骨返還をもとめた、沖縄県教育委員会にたいする情報公開請求訴訟が那覇地裁で提起された。本書では、両訴訟が提起されるにいたる動機、歴史的・社会的背景、提訴後の遺骨返還運動の展開などについて分析する。そして最後に、琉球先住民族による脱植民地化・反帝国主義運動の背景、過程、その歴史的意味などを論じる。
本書は、学知の帝国主義によって植民地支配され、差別され、死においやられ、今でも軍事基地の犠牲となり、先祖の遺骨供養を拒否された琉球人からの、「告発の書」である。また京都大学、日本人類学会、沖縄県教育委員会との「対話と和解」をもとめた「論争の書」でもある。問題提起、批判にたいして沈黙をまもり、時間の経過による「問題の忘却」をまつのではなく、たがいに議論(対話)をすることで、問題の本質にせまり、その解決(和解)にいたる道を探求する過程そのものが「学問の王道」であるとかんがえる。ギリシャのソクラテスの「対話」から学問がはじまったことを想起するなら、現代社会における学術の社会的意味をといなおす作業はけっして無駄ではないとかんがえる。
(…後略…)