目次
はじめに
第1章 両親とその先祖の歴史
第2章 出生から引き揚げ後まで 1940‐1949
第3章 小学時代、中野四中時代、都立西高校時代 1949‐1959.3
第4章 ヨーロッパ反核旅行と東大社会学卒業 1959.4‐1964.3
第5章 東大大学院入学から『タイの近代化』(一九七一年)まで 1964.4‐1971.2
第6章 東洋大学への就職 1971.3‐1975.3
第7章 筑波大学との出会い 1975.4‐1982.3
第8章 『日本的経営と異文化の労働者』(一九八七年)まで 1982.4‐1987.2
第9章 『国際社会学研究』(一九八九年)まで 1987.3‐1989.1
第10章 『外国人労働者定住への道』(一九九三年)まで 1989.2‐1993.1
第11章 『新生カンボジア』(二〇〇一年)まで 1993.2‐2001.9
第12章 筑波大学定年退職まで 2001.10‐2004.3
第13章 『貪欲に抗する社会の構築』(二〇一〇年)まで 2004.4‐2010.12
第14章 『移民社会学研究』(二〇一六年)まで 2011.1‐2016.9
第15章 『自伝』(二〇二二年)まで 2016.10‐2022
おわりに
著作一覧
前書きなど
はじめに
以下は、中野四中二年生であったわたしの「わたしはどのような人になりたいか」という題の作文である。
「僕は人のためになる人間になりたい。皆の幸福を作り出す人。そして、その人がいることによって社会が少しでも良くなる、そんな人になりたい。
僕は時々こんなことを考える。いつのまにかお爺さんになってしまって、いつ死ぬかわからない時に、きっと、自分の生きてきた道をふりかえるだろうと思う。その時本当に充実しきった人生を送って来た、人間として悔いのない生活をした、と確信を持って考えられるそんな生き方こそ一番良いのではないか。」
まさかこの予言が当たるとは思わなかったが、わたしは、自分の人生をこの予言のとおりに精一杯生きてきた。二〇二〇年九月についにわたしは八〇歳の大台に達し、傘寿を迎えた。すなわち死がすぐそこに近づいたのである。わたしの死とともに、わたしの記憶は無論のこと、記録類もすべて失われてしまう。わたしの人生の痕跡も残らないのはまことに残念であるが、自伝が残ればこの心配はなくなる。
自伝を執筆したい別の理由もある。もしわたしが先に死ねば、わたしの人生の伴走者でありつづけてきた妻彌生にとっても、長女美佳と次女えりかのふたりにとっても、夫や父の人生の記録はきわめて貴重なものとなろう。それだけでなく、長女には孫の大洋がめぐまれ、中学生となっている。次女にも三歳の風花と生まれたばかりの一花の二人の孫にめぐまれた。この三人の孫が大きくなったときに、祖父であるわたしの自伝は何よりの贈り物となろう。
さらに、わたしとともに学び成長した教え子は数多いが、この人びとにとってもわたしの自伝はそれぞれが歩んだ人生の背景を明らかにするものとなろう。さらにわたしは、西高時代、東大時代を通じて、多くの学友にめぐまれてきた。わたしの自伝は、この人たちが青春時代を想起できるためのよすがともなるだろう。また、わたしを引き立ててくれてきた先輩たちや友人たちも、わたしの自伝を喜んでくれるだろう。
わたしのそののちの人生行路にとって決定的だったのは、東大大学院への進学であった。当時のわたしは大学教員になることを目指してはいなかった。わたしは東大の知的雰囲気のもとで、知恵と知識の圧倒的な不足を痛感していたのがその最大の理由である。それにもかかわらず、大学院に進学した結果として、わたしは次々と良き師にめぐまれ、人生が自ずと開けていった感がある。
(…後略…)