目次
序論[大山万容]
移民の増加と学校の多言語化
移民現象が言語教育学に問いかける問題
複言語主義について
本書から見えるいくつかのテーマ
謝辞
第1部 多言語化する日本の学校
INTRODUCTION[清田淳子]
移民との共存のための複言語教育[大山万容]
1 日本における移民
2 異言語話者を含む学校での言語教育
結論
日本における外国人児童生徒等への教育と支援――日本語指導担当教員の方略に焦点を当てて[浜田麻里]
1 序
2 外国人の子ども達の教育からの排除
3 日本語指導教員の方略
4 ミクロな方略を支えるマクロな構造の脆弱さ
5 外国人受入れ拡大への対応
6 おわりに
日本の公立中学校における母語を活用した学習支援[清田淳子]
1 はじめに
2 「教科・母語・日本語相互育成学習モデル」の概要
3 「教科・母語・日本語相互育成学習モデル」を用いた学習支援の概要
4 「母語による先行学習」の実際
5 「日本語による先行学習」の実際
6 まとめと今後の課題
視覚的言語自伝に見る移民1.5世の複言語主義――被支援者から支援者への道のり[オチャンテ・村井・ロサ・メルセデス/大山万容]
1 はじめに
2 著者の視覚的言語自伝
3 視覚的言語自伝から見える複言語主義――言語の「満ち欠け」、言語の「意味」および文化との関わりの変遷
4 描き、物語ることを通した省察の意義と教育への示唆
「多様化」を唱える小学校外国語教育の課題――日本の小学校における外国語指導助手の表象と現実をめぐって[ピアース・ダニエル・ロイ]
1 はじめに
2 ALTの導入と変遷
3 非英語母語話者による授業実践
4 考察
5 さらなる展望
第2部 多言語化する海外の学校
INTRODUCTION[西山教行]
多言語主義に開かれる学校――カナダ、フランス、ニューカレドニアでの体験から考える[エラレチアナ・ラザフィマンディンビマナナ/西山教行・訳]
序
1 多言語主義という用語とさまざまな視点
2 多言語主義、レトリック、価値観、脅威
3 他者性を強調する多言語主義
4 結論、将来に向けた考察
フランスにおける移民の子どもの受け入れ――バイリンガリズム(複言語主義)の承認と発展を目指す学校のために[ナタリー・オジェ/大山万容・訳]
1 フランスにおける移民の子どもの受容――これまでの歴史的プロセス
2 児童生徒の言語と経験
3 バイリンガリズム(複言語主義)を承認し発展させるために学校で実施される制度レベルの研究
4 移民の子どもが役割を持つことができるようなバイリンガル(複言語主義)学校のための考察とモデル化
移民児童による第二言語としてのフランス語習得――小学校における緘黙の予防[ジェレミー・ソヴァージュ/藤井碧・訳]
1 ある事例
2 子どもと言語使用――構築の長い過程
3 第二言語のアプロプリエーション――一つの言語が別の言語を隠す
4 表象の重要性
5 結論
カナダの異言語話者――学習困難を抱え、フランス語が第二言語である児童の出身言語がつづりの問題を克服するための切り札となるとき[キャロル・フルーレ/松川雄哉・訳]
1 問題提起
2 概念的枠組み
3 メタグラフィック・コメント
4 児童文学
5 実験方法
6 結論
7 教育的展望
あとがき[清田淳子]
編著者・訳者紹介
前書きなど
序論
本書は、移民の増加により多言語化する学校での言語教育に関わる問題を、主としてヨーロッパと日本の両方の視点から考えるための論考を集めたものである。
(…中略…)
本書から見えるいくつかのテーマ
本書は第一部では日本、第二部では海外からの報告を集めた。上述のように日本と海外とでは移民の包摂の文脈が異なるが、それにも関わらず、これら複数の視点から共通して見えてくるのは次のテーマである。
(1)単一言語主義に特徴づけられる学校が、多言語化、すなわちカリキュラムに含まれていない言語の増加に対して、どのように対応するか
学校の多言語化のように言語政策に関わる議論では、マクロ(行政)レベルの制度的問題だけではなく、メゾ(学校)レベル、ミクロ(教室)、ナノ(個人)レベルでの動きを見ることが重要である。
浜田論文は、日本での異言語話者である外国人児童生徒が母語・母文化から排除されていると考え、これを不公正と捉え、それを是正するためにはマクロレベルでの支援基盤が必要であると論じる。大山論文もやはり異言語話者の包摂に失敗すれば社会的に二流の市民を作り出す危険があること、そしてそれに対して言語教育学の観点から複言語教育の重要性を論じる。ラザフィの論文はカナダ、フランス、ニューカレドニアと国を移動してくる中で単一言語主義に基づく学校(実際には、学校を構成する個々人)が異言語話者の受け入れに対して「不安」を抱くという点を個人史から述べる。これに対してオジェの論考はフランスにおける移民受け入れを振り返りながら、単一言語主義をどのように乗り越えるかについて具体的な方策を検討している。ピアース論文はこれまでほぼ可視化されなかったALT(外国語指導助手)の保持する複言語主義について、この制度の歴史的変遷をたどりながら明らかにするもので、英語・英語圏文化のみを規範とする単一言語主義の教室に置かれたときにどのような展開が生じうるかを、実例をもとに解き明かす。
(2)多言語化する学校の中で、個人は何を経験し、どのように生きるか
清田の論考は移民の子どもへの学習支援において、ミクロレベルへの働きかけからナノレベルでの経験までを具体的に示す。オチャンテ・大山の論考はナノレベルに焦点を当てるもので、移民1.5世代の筆頭著者について、視覚的言語自伝からその来歴と、個人の複言語主義の社会にとっての意義を明らかにする。さらに浜田の論考は多言語化に向きあった個々の教師について、またピアース論文はALTについて、どのような経験を生きるかをそれぞれ伝えている。フランスからはソヴァージュが異言語話者の子どもについて、ラザフィは自分自身について、それぞれの経験を論じる。さらに、様々な形で学校の外から学校の教育に介入する人(保護者、巡回相談員、ALTなど)が学校組織の中でどのように周辺化されうるかというテーマも繰り返し現れる。
以上の展開から明らかになるのは、次の論点である。
(3)母語あるいは子どもの持つ言語を学校での学習に取り入れること、それによって学習において言語を複数化させることの意義、さらにはその具体的方策について
清田の論考はまさに母語・日本語を行き来しながら教科内容理解を深めるもので、この報告は言語を複数化させることが学習にどれほど有効であるか伝えている。ソヴァージュの報告は移民の子どもに見られる緘黙に焦点を当てて予防策を提案する。フルーレの論考は、つづりの問題を児童が乗り越えるためのカナダにおける方策について報告するもので、ここでもやはり子どもの出身言語を「自由に用いてよい」ことを示すプロジェクトの優位性を質的研究により明らかにしている。大山、ピアース、オジェの論考はさらにこれを多数派の学習にも拡張すべきと訴えるもので、学校の中で周辺化されてきた人たちの言語・文化的資源を教育に活かすために、どのような方策をとるべきかという方向性を示すものとなっている。
(…後略…)