目次
まえがき
新版まえがき
第1章 はじめに
第2章 体液理論による医学――ヒポクラテスとガレノスの遺産
病気は神の業である
病気は悪霊の仕業である
ヒポクラテスの革新
体液理論の医学哲学
ガレノスとテキスト偏重
体液理論の残したもの
神殿医療
まとめ
第3章 ペスト、三度のパンデミック――五四一年~一九五〇年ごろ
ペストと公衆衛生
ペストの影響
三度のパンデミック
第4章 ペストという病気
ペストの病因
症状と治療
ペストの病型
まとめ
第5章 ペストへの対応
市民の自発的な対応
公衆衛生対策
評価
第6章 エドワード・ジェンナー以前の天然痘
感染症を比較する
ウイルス性疾患
伝播
症状
治療
第7章 天然痘の歴史への影響
ヨーロッパの天然痘
アメリカの天然痘
天然痘と公衆衛生
第8章 戦争と疾病1――ナポレオンと黄熱とハイチ革命
サン・ドマング
「苦い砂糖」
社会の緊張
奴隷反乱と黒いスパルタクス
奴隷制回復をねらうナポレオンの戦い
フランス軍の壊滅
まとめ
第9章 戦争と疾病2――一八一二年のロシア、ナポレオンと赤痢と発疹チフス
ニエーメン渡河
ロシアの奥へ
赤痢
ボロジノの戦い
モスクワで
敗走
発疹チフス
まとめ
第10章 パリ臨床学派
体液病理説の危機――パラケルスス
正統医学への科学からの異論
パリの知識革命の背景
パリ病院学派の活動
第11章 衛生改革運動
パリの衛生学
エドウィン・チャドウィックと救貧法改正
病気の不衛生環境説――トマス・サウスウッド・スミス
衛生報告書(一八四二年)
衛生改革運動
衛生設備の健康への効果
衛生思想と芸術
衛生観念の高まりが公衆衛生に残したもの
第12章 細菌病原説
思想と組織の基盤――パリの病院医学からドイツの研究室医学へ
技術の基盤――顕微鏡と「アニマルクル」
著名な三人――パスツール、コッホ、リスター
「研究室医学」と専門職としての医師
細菌説の家庭生活への影響
まとめ
第13章 コレラ
病因、症状、芸術への影響
治療
疫学とナポリの例
コレラの恐怖――社会の緊張と階級対立
公衆衛生とコレラ――都市の改造
新たな生物型(バイオタイプ)――エルトール型コレラ菌
第七次パンデミックの発生
リタ・コルウェルとコレラの環境病原巣の発見
ペルーにおける現代のコレラ
二〇一〇年以降のハイチ
註
前書きなど
まえがき
この本は、イェール大学の学部課程の講座から発展したものである。もともとその講座の目的は、ちょうどそのころ話題になっていた、SARS(重症急性呼吸器症候群)、鳥インフルエンザ、エボラウイルス病といった新興感染症への関心に応えることだった。イェール大学の学部生に提供されていた既存の講座では、そうした新興疾患について学べる機会はなかったのである。もちろん、大学院に在籍する科学者や、医科大学院の医学生向けの専門講義では、これらの疾患を科学的な観点や公衆衛生の観点から扱っていた。だが、それらの講義にしても、疫病を社会的な背景や、政治や芸術や歴史との関係に絡めて考察することを目的としていたわけではない。さらに周囲を見渡せば、疫病の歴史とその影響についての研究は、アメリカの大学の学部カリキュラム全般において、まったく発展途上のテーマであることも明らかになった。しかし私からすると、感染症がいかに人間社会の形成に少なからぬ役割を果たしてきたか、そして昔もいまも、感染症がいかに人間社会の存続を脅かしているかについて、学際的な観点から議論することには重要なニーズがあると思われるのだ。そこで、そのニーズに私なりに応えようとしたのが、この講座だった。
その講座を書籍化するにあたり、講義の基盤になっていた当初の意図をなるべくそのまま残すのは当然として、学生にかぎらずもっと幅広い、しかし同じような関心をもった読者層に届けられるようにしたいとも考えた。言い換えれば、本書の目標は関連分野の専門家に届くことでなく、疫病の歴史に興味をもち、微生物からの新たな挑戦に人間社会がどれだけ備えられているかを心配する一般読者や学生に、議論をしてもらえるようにすることなのだ。
したがって本書の構成と内容も、その目的にかなうことを第一としている。もともとの講義と同様に、ここでも歴史や疫学についての予備知識を前提とせず、読者ができるだけ題材にとっつきやすいようにと工夫した。本書で取り上げる問題に関心のある人なら誰でもついてこられるように、これを読んだだけで一通りそのテーマについて多面的な理解ができるように論を進めたつもりだ。大学課程でも、人文学と科学の交差に興味のある学生向けの課程なら、本書を副読本のようなものとして使えるだろう。そのために、関連する科学用語には説明を加えてあるし、もっと詳しく知りたい人や、本文に出てくる意見の出典を調べたい人のためには参考資料の書誌情報も載せてある。また、巻末の注で出典を示すのは、本文中の直接引用だけに限定した。本書が何より目ざしているのは、このテーマに独自の貢献をすることではなく、既存の知識を広範な解釈に照らして考えてみることである。
ただし、本書は教科書ではない。私はこの分野の題材を包括的にまとめようとしているのではない。むしろ、あえて主要な争点と、社会に最も深い、最も永続的な影響をあたえてきた疫病だけに焦点を絞っている。そしてもう一つ教科書と違う点は、本書のいくつかの章が、おもに一次資料にもとづいて書かれていることだ。そうした部分では、これまでの常識とは異なる見解を述べることにもなるが、それが既存の文献の隙間を埋めるのに役立つこともあろうかと考えた。いずれにしても、私は一人の学者として、この分野の研究を行いながら、イェール大学の学部生という知識欲のある思慮深い一般読者の意見や質問から、多くを学ぶ機会に恵まれてきた。本書のさまざまな章から伝わる内容が、その一学者の得た確かな情報にもとづく見解になっていることを願うばかりだ。
(…後略…)