目次
総論 震災後文学の現在地[木村朗子]
1 世界がいっせいに反応した
2 震災後文学とはフクシマ以後の文学である
3 海外の日本文学研究者たち
4 震災後文学の現在地
5 本書の構成
〈特別寄稿Ⅰ〉 沼野充義 「あの日」を越えて――私たちはみな震災後への亡命者である
私は恥ずかしい
あの時、一瞬だけ私たちはいい人になった
すべてが3・11以前と同じようには読めなくなった
しかし、日本だけを特権化してはならない
3・11後の世界に「神様」はいるのか?
私は誇らしい
二日間の討議の最後に
第Ⅰ部 ことばと身体
第1章 イキモノをキュレートすること――川上弘美「神様2011」・多和田葉子『雪の練習生』を読む[ダニエル・C・オニール]
はじめに
1 「神様2011」におけるクマの指し示すもの
2 多和田葉子『雪の練習生』における人間と動物の関係
3 クヌートにまつわる付記
第2章 多和田葉子の震災後小説における暗示としての震災――震災後文学の読者論のために[藤原団]
はじめに
1 日付と場所
2 放射性物質、原発、汚染、そして海
おわりに
第3章 災厄と日常――震災後文学としての川上未映子作品[由尾瞳]
はじめに
1 二〇一一年「三月の毛糸」――「まえのひ」という詩的概念
2 二〇一七年「ウィステリアと三人の女たち」――記憶の復興
おわりに
第4章 見たものを覚えていることができる/忘れることができる――飴屋法水『ブルーシート』における当事者性[樋口良澄]
はじめに
1 演劇と震災
2 『ブルーシート』制作の経緯
3 当事者性と演劇性
4 関係としての当事者性
5 「私」という他者
6 生き残った世界
第5章 現実を変容させるフィクション――岡田利規の演劇からこれからの日本社会を読み解く[バーバラ・ガイルホン]
はじめに
1 岡田利規について、そして彼の演劇について
2 『Unable to see』の直接性
3 『現在地』が描いたこと
おわりに
第6章 身体とテキスト・「身体文学」としてのいとうせいこう作品[キャーラ・パヴォーネ]
はじめに
1 「身体文学」とはなにか
2 『鼻に挟み撃ち』をめぐって
3 『小説禁止令に賛同する』をめぐって
おわりに
〈特別寄稿Ⅱ〉 いとうせいこう 『想像ラジオ』を講義する
小説を書けなかった日々のこと
リズムがことばを呼び出していった
『想像ラジオ』の裏にある二人の死
小説の構造について
第Ⅱ部 歴史と記憶
第7章 〈移動〉しながら想像するという彷徨――多和田葉子『雪の練習生』の向き合い方[金昇渊]
1 ポスト3・11と「移動」をめぐる問題系
2 多和田文学における〈移動〉の射程――「越境」「エクソフォニー」再考
3 「わたし――ホッキョクグマ」という表象――存在の乱反射
4 ポスト3・11と〈わたし〉の結び目
第8章 フクシマ――多和田葉子のドイツ語作品における、一つの「転換」?[ベルナール・バヌン[吉田安岐訳]]
はじめに
1 『揺れる日々の日記』の出版
2 ドイツの社会(主義)化
3 『フクシマ24』
4 散りばめられた時
第9章 水と3・11――連鎖する読み、その接続可能性をめぐって[金ヨンロン]
1 太宰治「海」が置かれた場所
2 山形から広島へ
3 ヒロシマからフクシマへ
4 3・11以後、対抗と再生をもとめて
5 変質させられた「ウミ」と送られ続ける「ミズ」の手紙
第10章 震災後文学における東北の声――木村友祐作品を読む[木村朗子]
はじめに
1 明るさから怒りのほうへ
2 よそ者としての東北の叫び
第11章 糞泥まみれのいのち――キャピタロセン批判として木村友祐の「聖地Cs」を読む[クリスティーナ・岩田=ワイケナント]
はじめに
1 キャピタロセンとは何か
2 氾濫から反乱へ――「抵抗」というモチーフを読む
3 視座を変えること、そして東京の周縁化
4 「命」と「生活」と糞泥まみれのいのち
5 使い捨てのいのち――「資源」という論理を問う
6 ジェンダー化された危険、身をもっての抗議
おわりに
第12章 声の豊穣――震災後文学が拓く東北弁の可能性[新井高子]
1 啄木と東北弁
2 東北弁文学のあしどり
3 震災後の東北弁文学
4 東北弁から見えてくるもの
5 ふるさとの訛なつかし
〈特別寄稿Ⅲ〉 木村友祐 生きものとして狂うこと
痛ましさ、悔しさと後悔
未知の次元に入る
見た現実を矮小化しないこと
文学はだれに寄り添うのか
一匹の、いのちの叫び
第Ⅲ部 抑圧と解放
第13章 ネーションとドメスティケーション――大杉栄と金子文子の動物論[堀井一摩]
1 「鎖」という「絆」――大杉栄の「家畜」と「野獣」
2 ホームレスとホームシックネス――金子文子という迷犬
おわりに
第14章 生産的でない未来のために――小林エリカ「トリニティ、トリニティ、トリニティ」における震災とオリンピック[村上克尚]
はじめに
1 火をめぐる歴史
2 不可視化の暴力
3 生産性という呪い
おわりに
第15章 原発のなかの動物たち――高橋源一郎の3・11後の文学を今日的に再考する[フィリッポ・チェルヴェッリ]
はじめに
1 即時性と現在主義
2 『恋する原発』をめぐって
3 『動物記』を読む
おわりに――原発のなかの動物たち
第16章 人間家族より、多種と連れ立て!――木村友祐作品と小林エリカ作品の母系をたどる[マルゲリータ・ロング[小田透訳]]
はじめに
1 希望の砦における生政治
2 西野広美の最初のモー――生政治の定義する「命」
3 西野広美の二度目のモー――多種と連れ立つこととしての「命〉」
4 小林エリカの四世代の女たち
5 「放射脳ママ」がスグリと卵を料理する――小林エリカと生政治の対話
6 曾祖母の崩壊――人間の「正気」と動物の強度のあいだの分裂
7 ママの「裂け目たどり」――孕んで応援しよう!
第17章 汚染の言説としての「狂気」――チェルノブイリとフクシマにおける汚染のナラティブをめぐって[レイチェル・ディニット]
はじめに
1 木村友祐『イサの氾濫』をめぐって
2 木村友祐『聖地Cs』をめぐって
3 アリナ・ブロンスキー『ババ・ドゥーニャの最後の愛』をめぐって
4 鎌仲ひとみ監督『小さき声のカノン――選択する人々』をめぐって
終章 娯楽小説としての震災後小説、または認められざる3・11後文学について[アンヌ・バヤール=坂井]
はじめに
1 震災後文学と直木賞
2 震災をいかに表象するか
3 娯楽小説はいかに震災を表象し得るか――シリーズ物の場合
4 娯楽小説はいかに震災を表象し得るか――探偵小説の場合
おわりに――震災後文学、娯楽小説とメモリー
あとがきにかえて[アンヌ・バヤール=坂井]
前書きなど
総論 震災後文学の現在地
(…前略…)
5 本書の構成
本書は基本的に、二度のパリの学会の参加者から募った論文で成り立っている。ただし先に紹介した学会のすべてを収録することは物理的にかなわなかった。両方の学会に参加した場合にもどちらか一方の論文しか収録していない。その他、さまざまな事情でパリの学会に参加できなかったが関心を示してくれたメンバーにも声をかけている。
まずはじめに、〈特別寄稿Ⅰ〉として、沼野充義「「あの日」を越えて――私たちはみな震災後への亡命者である」を収めた。(……)
以下に収録した論文について第Ⅰ部の「ことばと身体」から順に簡単に紹介しよう。
第1章のダニエル・C・オニールは、カリフォルニア大学バークレー校で国際学会を主催するなど東日本大震災の問題に積極的に関わってきた。(……)本書に収めた「イキモノをキュレートすること――川上弘美「神様2011」・多和田葉子『雪の練習生』を読む」で扱われる多和田葉子『雪の練習生』は、多和田自らが日本語からドイツ語への翻訳を手がけたことで知られている。(……)
第2章の藤原団はフランスのトゥールーズ大学の所属で、パリの日本研究のメンバーとも学術雑誌の編集他で緊密に連携しており、編者のアンヌ・バヤール=坂井とは旧知の仲である。(……)本書に収めた「多和田葉子の震災後小説における暗示としての震災――震災後文学の読者論のために」では、多和田葉子の震災直後に発表された作品から論文執筆時における最新作『地球にちりばめられて』までを網羅的に論じている。
第3章の由尾瞳は、アメリカのコロンビア大学で博士課程を取得後、フロリダ国際大学で日本文学を教え、現在は早稲田大学の国際日本文化論プログラムに所属している。(……)本書に収められた「災厄と日常――震災後文学としての川上未映子作品」では、震災後に書かれ、『愛の夢とか』(講談社、二〇一三年)と『ウィステリアと三人の女たち』(新潮社、二〇一八年)に収められた複数の小説作品を合わせ読むことで、川上未映子の作品を震災後文学として読み解くものである。(……)
第4章の「見たものを覚えていることができる/忘れることができる――飴屋法水『ブルーシート』における当事者性」は、『唐十郎論――逆襲する言葉と肉体』(未知谷、二〇一二年)という著書もあり、演劇に詳しい樋口良澄による論考である。(……)
第5章のバーバラ・ガイルホンは、先にも紹介したようにクリスティーナ・岩田=ワイケナントとの共同編集で二〇一六年に『フクシマとアート――核災害とネゴシエートする』(二〇一六年)を出している。(……)本書に収めた論文「現実を変容させるフィクション――岡田利規の演劇からこれからの日本社会を読み解く」もまた岡田利規の演劇作品についての論考である。(……)
第6章のキャーラ・パヴォーネは、UCLAの大学院生であり、若き俊才である。(……)「身体とテキスト・「身体文学」としてのいとうせいこう作品」では、いとうせいこう『鼻に挟み撃ち』『小説禁止令に賛同する』をとりあげ、ジュディス・バトラー、ブライアン・S・ターナー他の身体をめぐる議論をふまえて、「身体文学」として読み解いていく。(……)
第Ⅰ部と第Ⅱ部を媒介する議論としていとうせいこうによる〈特別寄稿Ⅱ〉を収めた。(……)
第Ⅱ部「歴史と記憶」に収めた、第7章の金昇渊「〈移動〉しながら想像するという彷徨〈ベクトル〉――多和田葉子『雪の練習生』の向き合い方」は、立命館大学の大学院生による論である。(……)
第8章のベルナール・バヌンはフランスのドイツ文学研究者である。(……)本書に収めた「フクシマ――多和田葉子のドイツ語作品における、一つの「転換」?」では多和田葉子のドイツ語作品について扱っており、ドイツ語を解さない日本文学研究者にとってはありがたくまた興味深い論である。
第9章の金ヨンロンは、(……)ちょうど震災の年に日本に留学生としてやってきたこと、したがって本書に展開する太宰治、井伏鱒二などの近代文学研究を自身としては震災後文学研究としてやってきたことを記している。(……)本書にはそれとはまた別の論「水と3・11――連鎖する読み、その接続可能性をめぐって」を収めている。本論文は井上ひさしの蔵書を手がかりとして、「水」をめぐって、災害と文学がどのように切り結んできたのかを明らかにするスリリングなものである。
第10章の木村朗子「震災後文学における東北の声――木村友祐作品を読む」は、二〇一八年六月の学会で作家木村友祐を前にして行った発表にもとづく。(……)
第11章のクリスティーナ・岩田=ワイケナントは、震災後に南相馬に移住した作家、柳美里の研究にたずさわっており、海外での学会はもとより日本で行われた震災に関する研究会でもたびたび一緒になった。パリでの学会では二〇一八年六月に参加している。(……)
第12章の新井高子は、震災後、詩集『ベットと織機』(未知谷、二〇一三年)を発表し、詩人として震災に向き合った。(……)本書に寄せた「声の豊穣――震災後文学が拓く東北弁の可能性」は震災後に発表された東北弁による作品について幅広く論じている。
第Ⅱ部と第Ⅲ部を媒介する議論として〈特別寄稿Ⅲ〉を寄せてくれたのが、木村友祐である。(……)
第Ⅲ部「抑圧と解放」では、パリの学会に参加していないものの、震災後文学に日頃から関心を寄せていた研究仲間の論も収録した。
第13章の堀井一摩は、『国民国家と不気味なもの――日露戦後文学の〈うち〉なる他者像』(新曜社、二〇二〇年)を刊行している近代文学の研究者である。(……)本書に寄せた「ネーションとドメスティケーション――大杉栄と金子文子の動物論」は、著書の第二部で大きく扱った大杉栄の大逆事件の延長線上にある議論であり、震災後に起こった排外主義的事象を、ドメスティケーションをキーワードとして、その淵源を関東大震災の時代に探りあてている。
第14章の村上克尚は、著書に『動物の声、他者の声――日本戦後文学の倫理』(新曜社、二〇一七年)があり、動物をキーワードとして戦後文学としての武田泰淳、大江健三郎、小島信夫の小説作品を論じている。(……)
第15章のフィリッポ・チェルヴェッリは、二〇一八年の六月の学会に参加している。(……)フィリッポ・チェルヴェッリ「原発のなかの動物たち――高橋源一郎の3・11後の文学を今日的に再考する」は、震災後文学といわれた作品が、時間を経過したあとでどのように読まれ得るかについて考察する。
第16章のマルゲリータ・ロングには、谷崎潤一郎作品についてフェミニズム理論と精神分析の理論で論じた著書This Perversion Called Love: Reading Tanizaki, Feminist Theory, and Freud ( Stanford University Press, 2009)がある。(……)本書に寄せた「人間家族より、多種と連れだて!――木村友祐作品、小林エリカ作品の母系をたどる」はエコクリティシズムとフェミニズムから木村友祐『聖地Cs』、小林エリカ『マダム・キュリーと朝食を』について論じたものである。(……)
第17章のレイチェル・ディニットは先にも紹介したように、震災後文学についての単著『フクシマ小説――日本の三つの災害についての文学的風景』(二〇一九年)を刊行し、震災後の日本文学を幅広く論じている。本書に寄せた「汚染の言説としての「狂気」――チェルノブイリとフクシマにおける汚染のナラティブをめぐって」では、木村友祐『イサの氾濫』『聖地Cs』に、チェルノブイリ原発事故を扱ったアリナ・ブロンスキーの小説『ババ・ドゥーニャの最後の愛』をぶつけて、エコクリティシズムの視座で論じている。
終章には、共同研究者であり、共編者であるアンヌ・バヤール=坂井の「娯楽小説としての震災後小説、または認められざる3・11後文学について」を収めた。(……)
(…後略…)