紹介
未曾有の大災害・東日本大震災発生後、南三陸町・志津川では1,000人以上もの人が志津川小学校に避難した。避難所生活はどのように行われたのか? なぜ、コミュニティの運営がうまくいったのか? 震災発生から避難所解散までの59日を、体験者の聞き取りと膨大なメモや資料を元に一日ごとに再現。避難所体験の記録と事実を、今後の災害予防・支援、避難所生活の教訓、そして未来への提言としてまとめあげた貴重なドキュメンタリー。
目次
登場人物
第1章 志津川小学校避難所 59日間の物語
1――混乱期
3月11日[第1日] 津波が町を襲った
・地震、そして津波
・避難の道すじ
・最初の寒い夜
3月12日[第2日] おにぎりが来た
3月13日[第3日] サンマの煙があがった
2――初動期
3月14日[第4日] 自治会、結成!
3月15日[第5日] 土足はやめましょう!
3月16日[第6日] 事務局の女たち、施設部の男たち
3月17日[第7日] 外の力を借りて――自衛隊と医療チーム
3月18日[第8日] 救援物資をめぐって
3月19日[第9日] 行政には頼らない
3――展開期
3月20日[第10日] カップラーメンの餞別
3月21日[第11日] 避難所と学校 子どもたちのために
3月22日[第12日] マスコミの功罪
3月23日[第13日] ありがとう、自衛隊
3月24日[第14日] お風呂事件
3月25日[第15日] ボランティア中学生の活躍
3月26日[第16日] 関西からすごいボランティアがやってきた!
3月27日[第17日] さあ、大掃除!
3月28日[第18日] 特別な卒業式
3月29日[第19日] 避難所の日常
3月30日[第20日] あおぞら教室、スタート
3月31日[第21日] 体育館が生き物に見えた
4月1日[第22日] 町の人事異動
4月2日[第23日] 「東日本大震災」に決定
4月3日[第24日] シンタロー副会長、ノロに倒れる
4月4日[第25日] 食器の使い回し禁止
4月5日[第26日] ノロ感染 ピークに
4月6日[第27日] 避難所に臨時郵便ポストオープン
4月7日[第28日] 児童数の減少
4月8日[第29日] 最大の余震
4月9日[第30日] ドラム缶を囲んで
4月10日[第31日] 最初の1か月
4――収束期
4月11日[第32日] 亡くなった人たちとともに
4月12日[第33日] ノロ終息
4月13日[第34日] ボランティア運営
4月14日[第35日] 仮設住宅の情報
4月15日[第36日] 理科室の整理
4月16日[第37日] 避難所で結婚式を
4月17日[第38日] ドッジボール・綱引き大会
4月18日[第39日] 赤ひげ先生の話
4月19日[第40日] 福興市計画
4月20日[第41日] 物資担当者のアイデア
4月21日[第42日] パーティションは要らない
4月22日[第43日] 子ども用仮設トイレ
4月23日[第44日] 新しいご近所さん
4月24日[第45日] 仮設住宅の当選発表
4月25日[第46日] くらしの情報
4月26日[第47日] そうだ、花見をしよう!
4月27日[第48日] 避難所解散に向けて
4月28日[第49日] あおぞら教室終了
4月29日[第50日] さあ、福興市!
4月30日[第51日] 福興市にEXILEがやってきた
5月1日[第52日] おめでとう、赤ちゃん誕生!
5月2日[第53日] 周辺住宅の支援
5月3日[第54日] 救援物資の最終配給
5月4日[第55日] 自衛隊のお別れ会
5月5日[第56日] 近くだからいつでも会えるね
5月6日[第57日] トイレの水の確保
5月7日[第58日] 2日がかりの大掃除
5月8日[第59日] さよなら、避難所
第2章 志津川小学校避難所から学べること
はじめに──コミュニティとしての避難所
1 地域の人間関係を重要視する
2 避難所の民主的運営
3 調和のとれたリーダーたち
4 ドラム缶の役割
5 「災害ユートピア」の出現
6 おわりに──図表 志津川小学校から学べること
第3章 志津川小学校避難所からの5年
1 南三陸町の5年
2 商店街の人びと
3 若い世代の人びと
4 地域復興事業に関わる人びと
5 南三陸町の未来へ
資料
資料1 震災前の南三陸
資料2 避難所の避難者数推移
資料3 阿部さんのノート
資料4 洋服の登録証
資料5 初期の志津川小学校避難所の配置図
メッセージ
あとがき
編者紹介
前書きなど
あとがき
(…前略…)
本書の中心部をなすのは、もっとも分量が多い第1章である。
当初は、大まかには時間の経過をたどりながらも、自治会の組織やそれぞれのパートで活躍した人物を中心にまとめていこうと、私たち阪大チームは考えた。端的に言って、その方が書きやすいからである。しかしながら、ドラム缶の会サイドから出てきたのは、震災当日からの出来事を、1日1日と丹念に追っていくようなスタイルのものにしてほしいという強い要望であった。当然と言えば当然のリクエストなのだが、これは実際問題としてはかなりきつい要望であった。
私たちに与えられたのは、資料の山(何種類かのメモ、その他の種々雑多な文書資料や写真、大量の聞き取りデータなど)である。資料の記載事項には、当然漏れもあり、食い違いもある。データの不足から、本書では各地より寄せられた支援物資や義援金の状況についてふれることができなかった。避難所ボランティア、医療支援を行ったAMDAや学習支援TERACOについても充分記述することができなかった。また、あることがらをめぐって全く別の見方や評価が異なる関係者から与えられることもあった。これを上手に時系列的にまとめていくのは骨の折れる仕事であった。
しかも私たちは、震災・津波を体験した当事者ではない。遠く離れた大阪から、数年後に被災地にやってきた新参者にすぎない。当時の切迫した状況や、被災した人びとのつらさ・悲しさ・憤りなどを推し量りはするものの、それが「真実」に近いものとなりえたかどうかの確証は全くない。そこで私たちは、当時の避難所運営に携わり、なおかつ私たちが複数回インタビュー可能な人物を中心に本書を作成した。したがって、本書が残したのは志津川小学校避難所の真実というよりも、運営に携わった方々が残した資料や語りを中心に据えて描き出した避難所である。登場人物を「カナ」や「所属」「立場」表記にしたのも、本書が「物語」としての側面を有しているからである。
(……)
第2章は、第1章に展開されている志小避難所の59日間の記録から、私たちが引き出せる教訓を整理する目的で作成したものである。そのとりまとめには榎井があたった。志小避難所関係者の「震災から現在へ」に焦点を当てた第3章は、最初は予定されていなかったパートである。この部分の執筆には鈴木があたった。最後の資料編を含め、執筆に関わる基本情報やアウトラインの作成・整理は、私たちの記録保存プロジェクトの「裏方」として、多岐にわたる事務作業や段取りを一手に引き受けてくれた山本である。
先にも述べたように、本書は、「避難所の記録・事実を残すこと」と「読みやすい、参考になる本を書くこと」という2つの目標のもとに作成された。その「二兎を追う」作戦が成功したかどうかは、読者の皆さんの判断に任せるしかないだろう。
(…後略…)