目次
はじめに
第1章 花岡事件と山邉悠喜子
花岡事件とは何か
反古にされた約束
第2章 旧満州へ
満州の女学校で看護婦資格を取得
敗戦半年前に教師に
敗戦間近、逃げ帰った軍人たち
敗戦後の混乱と厳しい生活
日本人居留民会の要求
東北民主聯軍(八路軍)の医療部隊に参加
中国民衆の温かい感情に触れて
東北民主聯軍の綱領
帰国
夫・賢蔵氏との出会い
第3章 ふたたび中国へ
日本語教師として中国へ
恩師・韓暁さんとの出会い
もうひとりの恩師・歩平さんとの出会い
第4章 夫・賢蔵氏の遺志
関東軍航空隊隼部隊から八路軍へ
中国への強い思いを抱えて
賢蔵氏の魂、中国へ還る
第5章 戦争責任と日本の司法
731部隊の犠牲者遺族・敬蘭芝さんとの交流
731部隊国家賠償請求訴訟の法廷で
歴史事実を尊重しない判決への憤り
ABC企画委員会の沿革と活動
第6章 終わりなき旅
二度と日本と中国が戦争しないために
長春に李茂杰さんを訪ねる
源炭鉱万人坑へ
おわりに
前書きなど
はじめに
「なぜあなたはそんなにも中国に対して関心が深いのですか?」
山邉悠喜子さん(以下敬称略)は講演会の席上でよく尋ねられると言う。山邉の日中友好と平和活動にかける深い思いの源泉がどこにあるのか、質問者だけでなく、同じ問いを私も抱いていた。
山邉は静かに答える。「日本の敗戦後、満州(現在の中国東北部)に残された私がどのような経験をしたのか知っていただけばお答えになるかもしれませんね」。
この応答を聞きながら、山邉はどのような経験をしたのだろうか、70年前の経験が現在の山邉にどのように継承されているのだろうか、私のなかで疑問が膨らんでいた。
(…中略…)
山邉の人生については山邉自身が講演、またABC企画委員会(後述、「731部隊展」の実行委員会を母体としている)のニュースなどで発表しているのでご存じの方も多いと思う。屋上屋を架すことにためらいを感じながら、それでも書きたいと考えたのは、冒頭の講演会参加者の質問に対する答えを私なりに探したいと考えたからである。
1章では山邉が最近『花岡を忘れるな 耿諄の生涯』(社会評論社)に寄せた文章から、山邉の活動の視点と思われる部分を紹介した。2章は聞き取りを中心に山邉家の満州における生活、八路軍兵士として歩いた道と帰国までを、3章では日本語教師として、また語学留学生として再訪した中国での生活、生涯の師となる2人との出会いを紹介。4章で山邉の分身ともいえる夫・山邉賢蔵さんとの出会いと別れを、5章では、日本の戦争責任に対する司法への疑問、無二の友人・敬蘭芝さんとの別れ、山邉の活動を支えるABC企画委員会の紹介、そして、6章では中国黒竜江省社会科学院より名誉研究員に推挙された式典と、その後訪れた吉林省源炭鉱万人坑の実状を、終わりなき旅と題して、歩きつづける現在の山邉を紹介した。
(…後略…)