目次
はじめに
第1章 視野を広げて――アイヌ・沖縄の交易圏
蝦夷錦
アイヌへの関心
泡盛のルーツをたどれば
琉球が主導した東アジアの貿易
第2章 シャカが創始したのは?――仏教から考える
「人生哲学」としての仏教
宗教になるのは、大乗仏教から
玄奘三蔵
第3章 環境破壊の世界史――木を切って滅んだ文明
インダス文明の謎
中国の古代文明
朝鮮の禿山
キリスト教は環境破壊の元凶
第4章 民族性は存在するのか?――ケルトの島から
ローマ帝国はこなかったが、キリスト教はきた
異教の神とキリスト教
アイルランドでのキリスト教布教と聖パトリック
イェイツの怒り
ジャガイモ登場
大飢饉
リヴァプールの世界史
アイルランド的性格
第5章 近代市民社会の精神――オランダから考える
レンブラント
レンブラントと「夜警」
オランダ独立戦争
プロテスタント
リーフデ号
出島
オランダから学べ
第6章 近代国家の陥穽――バスクとザヴィエルを訪ねて
バスク
国家とは
フランシスコ・ザヴィエルの光と闇
再び、木を切って滅んだ国とカーレーズ(カナート)
第7章 自然に生かされて――草原からの世界史
草原とは?
遊牧とは?
スキタイ
モンゴル帝国の世界史的意義
騎馬民族の遺産
第8章 近代的人間の形成――江戸期の合理精神
江戸期の合理精神
ニコライ
新島襄
アメリカでの新島襄
第9章 さまざまな普遍――世界史のなかの中国
中華料理
儒教は、普遍思想たりうるのか
普遍へのあこがれ 巨大墳墓、不老不死の思い
第10章 朝鮮と日本――一衣帯水の歴史
朝鮮への関心
一衣帯水の仲
近代の日朝関係
植民地になるということ(1) 関釜連絡船は語る
植民地になるということ(2) いとしのクレメンタイン
あとがき
引用・参考文献
前書きなど
はじめに
(…前略…)
なぜ、いま、司馬遼太郎なのか
司馬は晩年(1989年)に、『小学国語 六年 下』(大阪書籍)に「二十一世紀に生きる君たちへ」という文章を書いている。司馬は「歴史から学んだ人間の生き方の基本的なこと」として、「自然こそ不変の価値なのである」といい、それを基準に置いて人間のことを考えなければならない、という。そして、結論を「人間は――くり返すようだが――自然によって生かされてきた。古代でも中世でも自然こそ神々であるとした。このことは、少しも誤っていないのである。歴史の中の人々は、自然をおそれ、その力をあがめ、自分たちの上にあるものとして身をつつしんできた。この態度は、近代や現代に入って少しゆらいだ。――人間こそ、いちばんえらい存在だ。という、思いあがった考えが頭をもたげた。二十世紀という現代は、ある意味では、自然へのおそれがうすくなった時代といっていい」とむすんでいる。
この子どもたちへのメッセージ、「抑制こそ文明」という言葉は、過去との対話をとおして、司馬遼太郎が伝えたかった世界史認識の一つなのである。そうした認識を初めとして、さまざまな認識に、司馬がどう到達したのか、その歩みを追って、かれが伝えたかった世界史を学んでみよう、というのが本書の試みである。
歴史という言葉には、二つの意味があるといわれる。一つは、人類のあゆみのなかで、生起したすべての事柄の総体という意味であり、他は、その総体と人類がどのようにかかわって生きてきたかを追求する、という意味である。
司馬の歴史認識の集大成的位置を占める『街道をゆく』シリーズで取り上げられている事柄は多岐にわたるが、もとよりそれは、生起したすべての事柄にかかわるものではない。総体と人類のかかわりに関する部分的な考察である。だが、その部分的考察は歴史好きな読者にとって、参考になるはずである。
そうした意図から、ある歴史事象にかれが関心を持つにいたった原因、それに対する考察、意見をかれの著作を通して、再現しようと努めた。また、司馬が考察の対象としながらも、かれの視点から抜け落ちている事柄もあえて取り上げた。それは、司馬の考察が絶対的なものではないからである。
また、司馬はその著作のなかで「余談として」という形で、さまざまなエピソードを書いているので、そのひそみにならって、関連する事柄を「コラム」として挿入した。