目次
まえがき
第1部 なにも終わってはいない、なにも始まってもいない――浪江町原発避難民3人の2年間
今野秀則さんのノート(元県庁職員、65歳)
東日本大震災末記〈2011.3.11~3.31〉
希望は捨てたくない。だが厳しい現実〈2012.3.12〉
二度目の冬を迎えて〈2012.12.27〉
菅野みずえさんのノート(主婦、59歳)
無事に明日が来るか、誰にもわからない〈2011.3.11~2012.3〉
原発事故で避難している者からあなたへ〈2013.1.6〉
門馬昌子さんのノート(主婦、69歳)
想定外の人生になってしまった……〈2011.3.11~2012.1〉
もう浪江には帰らない〈2013.1〉
第2部 原発避難民48人がつづる震災の記録
あの日から変わってしまった人生
note 1 友人・知人を残して避難するつらさ(匿名/南相馬市原町区、女性)
note 2 荒れ果てた田畑の前で涙(横山恭之/浪江町、72歳)
note 3 震災後、転勤で南相馬に住み思うこと(匿名/南相馬市、54歳)
note 4 広野町‐沼津‐いわき(山内良仁/広野町、64歳)
note 5 まさか自分の身にふりかかるとは(山内悦子/広野町)
note 6 マスク越しにしかかげない梅の香(伹野一博/南相馬市鹿島区、58歳、薬剤師)
note 7 長男が入院、夫も脳梗塞で倒れる(関根とみ子/富岡町)
note 8 私たちは麻痺していたんだ(草野繁春/南相馬市鹿島区、56歳、自営業)
note 9 戦争体験のように語り継がねば(志賀高史/南相馬市小高区、28歳、臨時事務職)
note 10 人間の原点を失ってしまった(大野重雄/浪江町、55歳)
note 11 どうしようもない失望感(匿名/南相馬市、女性、55歳)
note 12 川内村は安全だと思っていました(KUBOTA SHIGETUGU/川内村、54歳)
原発・放射能について思うこと
note 13 いい加減に目を覚まさなければ(高野正昭/双葉町山田、38歳、会社員)
note 14 がんばれる仕事がほしい(星美恵子/南相馬市、70歳)
note 15 避難の民となって今を生きる(匿名/浪江町、女性)
note 16 福島の子どもたちを守ってほしい(匿名/南相馬市、男性、30代)
note 17 透析を受けるために必死に病院を探した(田主守/大熊町夫沢、会社経営)
note 18 寝ても起きても東電が憎い(髙橋正人/飯舘村長泥)
note 19 悔しくてなりません(根本哲子/広野町、68歳)
note 20 沖縄に避難し、活動を始める(伊藤路子/白河市、63歳)
note 21 放射能の怖さを知るのはこれから(幸森正男/広野町、75歳)
note 22 原発で潤った町で(高橋南方司/南相馬市小高区、68歳)
note 23 少しでも笑顔でと思う(只野由起子/南相馬市鹿島区、55歳、自営業)
note 24 立ち直れるための環境がほしい(匿名/南相馬市、女性、54歳)
note 25 自分の家に自由に出入りしたいのです(木幡昭重/大熊町夫沢、73歳)
note 26 自然と涙のでない日はありません(佐藤トラ/浪江町、83歳、農業)
note 27 放射能にむしばまれていく(匿名/南相馬市原町区、男性、70歳)
note 28 情報を信じることをためらう生活(大堀志穂/福島大学2年)
note 29 原発のことを何も知らなかった(仁平奈津美/福島大学2年)
note 30 このままでは町がなくなってしまう(匿名/南相馬市原町区、女性、57歳)
note 31 不安を抱えながら、とどまっている(匿名/南相馬市、女性、30歳)
note 32 子どもたちには何の非もないのに(匿名/南相馬市、女性、30代)
note 33 災害への認識が甘かった(岡田香菜/福島大学4年)
note 34 事故の責任を明確にせよ(匿名/川内村)
気持ちを奮い立たせて
note 35 前を向いて、上を向いて(星保子/南相馬市、56歳)
note 36 牛の命を救った若い酪農家たち(紺野寿幸/75歳〈故人〉)
note 37 福島を、福島の人たちを忘れない(林麗萍/福島大学地域政策研究科修士2年)
note 38 家に帰れるまで、あきらめない(大野真大/浪江町、20歳)
note 39 ふだんの何気ない幸せを思う(山縣佑亮/福島大学4年)
note 40 就職への影響が気になった(宮崎友介/福島大学4年)
note 41 孫といっしょに川内に戻れるかな(佐久間きみ子/川内村、59歳)
note 42 家に戻れる日を待ちながら(匿名)
note 43 あの日の夜は絶対に忘れない(宇都宮和子/大熊町夫沢)
note 44 福島がバラバラにならぬよう祈る(大橋文之/南相馬市小高区、53歳)
note 45 私は生かされているんだなあ(匿名/南相馬市原町区、男性、40代)
note 46 前を向いて歩かないと始まらない(匿名/大熊町、女性、40代)
note 47 たくさんの人に助けられ成長できた(高梨孝司/広野町、32歳、団体職員)
note 48 みんなにやさしくしたい(匿名/富岡町、女子中学生)
あとがき
前書きなど
まえがき
2011年3月11日の東日本大震災。そして東京電力福島第一原子力発電所の事故を、私たちは永遠に語り継ぎ、記憶しなければならない。
この本は、原発事故で住み慣れた古里をおわれ、避難生活を余儀なくされた福島の人々の声を集めた。主人公は政治家でも官僚でも学者でもない。なんの落ち度もなく、ある日突然、原発事故で人生を狂わされた「普通の人々」だ。
地震、津波、原発事故、風評被害といくつもの苦難に向き合う住民の苦しみや悲しみ、それでも努力して助け合う人間の尊さと強さ。そして、今回の原発事故から見いだした教訓を未来に残していきたい。
そう考えた、朝日新聞・特別報道部記者(当時)の大和田武士(経済部)と北澤拓也(社会部)は「福島ノート」と題した、白紙のノートや便せんを、取材先で知り合った住民や各地の仮設住宅などに配り、住民の間で次々と書いてもらった。ノートがいっぱいになったり、次に書く人がいなくなったりしたら、郵送で送り返していただいた。
ルールはただひとつ。未来に伝えたいことや言いたいことなどを各自が「自由に書く」。それだけにした。
2011年末から震災1年後の12年3月までの期間に、子どもからお年寄りまでの計83人から貴重なメッセージが寄せられた(本書には、紙幅の関係で、そのうちの51人の方たちの手記を掲載させていただいた)。
取材で何度もお会いした方、逆にノートのやりとりだけのつながりの方も多い。
そのなかには避難先ですでに故人となってしまった住民もいる。もし、避難生活の過酷なストレスがなかったら……。慣れ親しんだ古里で、いつも通りの生活を送っていたことだろう。
ノートを託した、浪江町の男性は「こんな思いは我々だけで十分。二度と過ちを繰り返してはならないんだ」と言って、快く引き受けてくれた。
知らない土地の仮設住宅で、あるいは古里・福島から遠く離れた他県の地で、真剣にノートに向き合い、心情をつづってくださった住民の姿を想像すると胸が詰まった。
数文字、数行だけを書いた人から、地震から今までを時系列で詳細につづった長文を寄せてくれた人までさまざまだ。
「一日も早く、富岡町に帰りたいです」(いわき市の仮設住宅にて)。
たった17文字に住民の万感の思いが込められている。
厳しい避難生活の様子や古里への思い、家も仕事も失ったくやしさと将来の不安、国や東京電力への怒り。それでも前に進もうとする決意……。
寄せられたノートにはさまざまな住民の飾らない、本音がつづられている。この本の1字1字が福島の住民だからこそ言える、かけがえのない未来への伝言なのだ。
もちろん、この83人がすべてではない。私たちは、北海道から沖縄県まで散り散りになってしまった福島の住民にお会いした。
「私も言いたい」「ぜひ、書きたい」という声をたくさんいただいた。しかし、避難生活で余裕がなかったり「文章は苦手だから」などと遠慮されたりした住民もいる。
人々の苦悩はいまだに続いている。国民を守り、国民のためにあるはずの政府は早々と「収束宣言」を出したが、事故から2年近くが過ぎても、明確な廃炉の見通しや最終処分場建設のめどもないままだ。
それでも政府は大飯原発の再稼働を決めた。「まるで福島を忘れたかのようだ」。避難住民の多くは、そう感じている。
原発事故で今も約16万人が避難生活を送る。そのうち約6万人が県外避難だ。生きていくため、働き手は福島県内に残って働き、子どもと母親だけが県外で暮らす「二重生活」も多く生み出している。
一体、福島の教訓はどこに生かされるのか。メッセージを寄せてくれた人々は、福島の住民を代表した声だと思っている。
(…後略…)