目次
希望としての子どもたち、そして教職員――『東日本大震災 教職員が語る子ども・いのち・未来』の刊行にあたって(高橋達郎:宮城県教職員組合執行委員長)
第1章 子どもたちとあの日
東日本大震災大津波の記録(中寛:亘理 前荒浜小学校)
3月11日 津波から避難(佐藤直樹:名取 下増田小学校)
あの日おこったこと(庄司順子:岩沼 玉浦小学校)
あの日、星が私たちを見ていた(土屋聡:涌谷 月将館小学校)
学校の周りすべてが海に!(藤原聡:多賀城 多賀城八幡小学校)
学級だより「南郷小 三の一」(木下文彦:美里 南郷小学校)
学級だより「ぐうちょきぱあ」(木下まり子:美里 不動堂小学校)
みんな必死だった(石森知子:石巻 前渡波小学校)
あの日から(三戸部えみ子:仙台 南光台東小学校)
原則とその場の判断(菅田清:仙台 六郷小学校)
それぞれの3・11(高橋俊明、南豊、本多由美子、橋本とも:名取 増田西小学校)
3・11を考える(清水仁:塩竈 月見ヶ丘小学校)
教員の責務を痛感(佐藤正夫:仙台 前東六番丁小学校)
震災に住吉小はどう対応してきたのか(菊池修市:石巻 前住吉小学校)
あの日のこと あれから1年(宮部由美子:山元 元中浜小学校)
悔しい…… 友人・猪又聡君を偲んで(佐々木成之:気仙沼 津谷中学校)
並外れた行動の人 猪又聡さんを悼む(佐々木永一:元宮城県教職員組合執行委員長)
子どもたちの笑顔に支えられて(菊田浩文:南三陸 戸倉中学校)
第2章 あの時・あの日から願う
地域の復興なくして学校の再生なし1(徳水博志:石巻 雄勝小学校)
学校と地域がつながることの大切さ(山口正富:石巻 中津山第二小学校)
絆(遠藤利美:仙台 田子中学校)
忘れたい、でも忘れないように(芳賀郁雄:白石 前福岡中学校)
子どもの命を守るとはどういうことか(大高誠子:大崎 田尻小学校)
今、教員であること(渡邊晶子:石巻 蛇田小学校)
東日本大震災に宮城の一教師として遭遇して(鈴木吉雄:蔵王 宮小学校)
『今』を「生かされて」いる教師として(三浦洋司:南三陸 志津川小学校)
3月11日 真山小学校でのあの時(佐々木悦子:大崎 前真山小学校)
希望の言葉(泉田真孝:山元 山下中学校)
震災後の避難所運営と学校再開にむけて(千坂朋広:仙台 西山中学校)
あの時私は……そして学校では(須田幸子:石巻 住吉小学校)
守りたい! 子どもたちの教育を受ける権利(瀬成田実:宮城県教職員組合書記長)
子どもに寄り添い続けた人 佐々木祐一さんを偲んで(石垣好春:石巻 北村小学校)
夫の思いを胸に(佐々木芳美:石巻 中津山第一小学校)
第3章 あの日から子どもたちとともに
学校再建への中学生の思い(森達:亘理 荒浜中学校)
東日本大震災と子どもたち(佐藤昭彦:気仙沼 松岩小学校)
私と浜市小の21日間(渡辺孝之:東松島 浜市小学校)
あそび隊チーム黒川の活動(川名直子:富谷 東向陽台小学校)
被災校舎 南光台小学校の1年(五十嵐深和子:仙台 南光台小学校)
普通であることの幸せについて(戸村隆:仙台 西多賀小学校)
ふるさとの復興を考える(阿部広力:山元 前山下第二小学校)
地域の復興なくして学校の再生なし2(徳水博志:石巻 雄勝小学校)
学校を地域と人間の再興の場に(制野俊弘:東松島 鳴瀬第二中学校)
目指せ、日本一の避難所(佐藤直樹:名取 下増田小学校)
震災直後の避難所の様子(狩野敏江:仙台 長町南小学校)
辛い経験を生かすために(相澤義彦:仙台 長町小学校)
避難所勤務を経験して(鈴木健弘:仙台市教育委員会文化財課)
学校施設を避難場所として利用する際の課題(藤田基成:石巻 前蛇田中学校)
悲しみは消えない 佐々木孝先生を偲んで(山口正富:石巻 中津山第二小学校)
もう一度語りかけてほしい(佐々木かおり:石巻 住吉中学校)
第4章 子どもたちの未来のために語り継ぐ
東日本大震災の実態(手代木彰雄:仙台 元川前小学校)
忘れない あの日のこと(小原眞喜子:仙台 岡田小学校)
仙台の街中の中学校で感じたこと、考えたこと(大木一彦:仙台 上杉山中学校)
教員として父として息子として、そして無力だった一人として(鎌田克信:石巻 向陽小学校)
養護教諭としてできること(山田きえ子:仙台 東仙台中学校)
学籍を担当して感じたこと(勝然たみ子:石巻 万石浦小学校)
給食室から見たあの日・あの時(菅野ふみ子:大崎 古川第五小学校)
事務職員から見た被災地での1年間(小林功治:亘理 吉田中学校)
子どもの命を守ることが地域の未来をつくる(瀬戸千恵子:石巻 前雄勝中学校)
通常給食再開に向けて(小野美樹子:石巻 前広渕小学校)
東日本大震災と学校事務(三浦研一:石巻 石巻小学校)
宮城の教職員全体で被災校を支えたい(高橋達郎:白石 前大鷹沢小学校)
人間として魅せられた人 村田敏先生のこと(菅野俊雄:塩竈 塩竈第二中学校)
放射能問題を巡って(仲野達也:白石 越河小学校)
原発事故を経験した保護者として(古山智子:白石 越河小学校父母教師会前会長)
被災体験を書き語り継ぐ(千葉保夫:大学非常勤講師[宮城教育大・弘前大他])
あとがき(瀬成田実:宮城県教職員組合書記長)
前書きなど
希望としての子どもたち、そして教職員
『東日本大震災 教職員が語る子ども・いのち・未来』の刊行にあたって
東日本大震災で犠牲になられたすべての方々に対して深い哀悼の意を表すとともに、被災した皆さんに心よりお見舞いを申し上げます。また、全国の皆さんからいただいた温かいご支援に厚く御礼を申しあげます。
あの3月11日から1年6カ月が過ぎましたが、被災した沿岸部のガレキの山はそのままで建物の土台だけが残され、復興にはほど遠い状況にあります。福島原発事故による放射能汚染は広がり、いまだに16万人もの人々が故郷を追われ、避難生活を余儀なくされています。宮城県にも福島から約2000名もの方が避難してきています。また、宮城でも放射能基準値を超える農水産物が増えてきています。
震災による宮城での死者・行方不明の子どもは、326名、両親を失った孤児が135名、片親を失った遺児が900名にのぼり、教職員は19名が犠牲となりました。言葉にできない悲しみ、“答えのない悲しみ”は続いています。宮城の小中学校のうち、仮設校舎21校、間借り校舎26校、校庭などが仮設住宅などに使用されている学校は31校、不自由な教育活動が続いています。
あの日の午後2時46分、多くの中学校では午前中に卒業式が行われ、卒業生は自宅に戻っていました。多くの小学校では、低学年は下校し、高学年は来週に控えていた卒業式に向けて式場準備や大掃除等を行っていました。そこにあの大地震。長く続いた大きな揺れ。ほとんどの学校では、物が落ち倒れ、校舎にひびが入り、地盤が下がり地割れが起きました。その後、沿岸部の学校に大津波が襲ってきたのです……。
多くの学校は地域の避難所に指定されていました。地域住民の方々が学校に避難してきました。自治体・行政の機能が麻痺し低下する中で、避難所になった学校の教職員は、自分の家族を心配しながらも不眠不休でその対応に当たりました。同時に、子どもたちの安否確認をしながら学校の再開に努力してきました。年度末の教職員の異動が強行されるなか、家を流され家族を亡くした教職員も年度末と年度初めの業務も行わなければなりませんでした……。
あの日から、宮城の学校・教職員は、どんな事態に直面し、何を考え、どう行動したのか。私たち宮城県教職員組合は、被災した子どもたち・教職員・学校に対する支援活動を行うとともに、その記録を残すことは私たちにしかできないこと=私たちの使命と考え、昨年末から教職員の手記を募集しました。まだ、書ける状況にはない、書ける心境ではないとの返答も多くありました。また、被災した学校は多忙を極め、教職員は心身ともに疲れ切っている現状もあり、手記の集まりは芳しくありませんでした。しかし、編集担当者の熱い思いと幾度に渡るお願いで少しずつ集まってきました。
学校にいた子どもたちを避難誘導した学級担任はもちろん、子どもたちや地域住民のケアに当たった養護教員、学校再開や子どもたちの支援手続きなどの事務に当たった学校事務職員、学校給食の再開に奮闘した栄養職員、県南部の放射線量の高い学校のPTA会長、そして犠牲となった教職員の遺族・友人など、様々な立場の方々から貴重な手記をいただくことができました。文章のスタイルは様々ですが、これらによって、大震災が学校教育現場にもたらした全体像が明らかになっています。多くの方に読んでいただき、教職員の思い・願いを受け止め、今後の教訓にしていただきたいと思います。執筆者のみなさん、忙しい中、本当にありがとうございました。
先日、被災地で従業員を一人も辞めさせず雇い続け、地域の復興に貢献している地元企業の方から話を聞く機会がありました。その方の話が私の心に深く残りました。「震災直後からの子どもの言動が被災した多くの大人を精神的に支え、地域社会の精神的復興を勇気づけている。避難所で大人が理性を保てたのは、子どもたちがいたおかげだ。先生方に感謝している」。
また、今回の手記の中で、避難してきた地域住民を共に助けようとした同僚を亡くし、自らも津波に呑み込まれながらも奇跡的に助かった菊田浩文先生は最後に書いています。「~そんな中で、子どもたちの笑顔が私を前向きにさせてくれたことは間違いのない事実だ。私的にも失ったものがあまりにも大きすぎて、この子どもたちがいなかったら、きっと前向きに歩みだすことは難しかっただろうと思う」。
希望としての子どもたち、そして、子どもたちに寄り添い続けた教職員。私は、宮城の教職員を深く尊敬し、誇りに思います。
明治三陸大津波の年に生まれ、昭和三陸大津波から半年後に亡くなった宮澤賢治は、友人に宛てた手紙に「まだまだこんなことではだめだ」の後に「しっかりやりましょう」と11回も書いた後で、次のように記しました。
「かなしみはちからに、欲りはいつくしみに、いかりは智慧にみちびかるべし」
私たち宮城県教職員組合は、震災で命を奪われた子どもたち・教職員・人々の生きたかった思いを深く心に刻み、保護者・地域のみなさんとともに、すべての子どもたちが自信と希望を持って輝く学校の創造をめざし、これからも努力し続けていく決意です。
2012年10月 宮城県教職員組合 執行委員長 高橋達郎