目次
「移民・ディアスポラ研究」の刊行開始にあたって(駒井洋)
序章 移住労働と世界的経済危機(明石純一)
I 危機の実態
第1章 経済危機下の外国人「単純労働者」たち――彼/彼女らの制約的な就労状況、そして可能性(鈴木江理子)
【Column1】舵を切った外国人研修・技能実習制度――不景気と制度改定はどう影響したのか(鳥井一平)
第2章 日系人労働者がむかえた分岐点――世界同時不況のなかの在日南米系日系人の雇用(青木元)
【Column2】経済危機とブラジル人移住者の雇用――長野県上田市のヒアリングを通じて(ウラノ・エジソン)
第3章 興行から介護へ――在日フィリピン人、日系人、そして第二世代への経済危機の影響(高畑幸)
第4章 不況が明らかにしたパキスタン人中古車業者の実相――富山県国道8号線沿いを事例に(小林真生)
II 制度と運動
第5章 越境労働と社会保障――経済危機のなかで顕在化する移住労働者の社会保障問題(下平好博)
第6章 外国人労働者をめぐる社会運動の変化と展開――2008年以降の経済不況下を中心に(山本薫子)
III 諸外国の事例
第7章 経済危機下の外国人労働者をめぐる政策的排除と現実――韓国の事例分析(李賢珠)
第8章 経済危機を超えて――変わることのないフィリピンからの国際移住労働(アシス・マルハ・M・B/今藤綾子・訳)
第9章 中国の労働者送り出し政策――出稼ぎ市場の転換と政府の選択(岡室美恵子)
第10章 潜在的脅威から潜在的市民へ?――「移民問題」がアメリカへ提起する問題(大井由紀)
書評
明石純一『入国管理政策――「1990年体制」の成立と展開』
鈴木江理子『日本で働く非正規滞在者――彼らは「好ましくない外国人労働者」なのか?』(駒井洋)
編者後記(明石純一)
前書きなど
編者後記
本書を編集している最中の2011年3月、マグニチュード9の激震が日本を襲った。東日本大震災による被害はあまりに大きく、あまりに多くの尊い命が失われてしまった。残されたご家族の傷の深さ、その痛みと悲しみを、筆者には想像することすらかなわない。ここに謹んで哀悼の意を表し、亡くなられた方々のご冥福を深く祈るとともに、被災を受けたすべてのみなさまに、お見舞い申し上げます。
地震発生当時、わたしは勤務先の筑波大学のとあるオフィスの一角にて会議書類をまとめていた。地鳴りのような音とともに強い揺れが始まってまもなく、本棚の類はすべて倒壊し、天井の一部は剥げ落ち、窓は割れ落ちた。オフィスの四隅には今も亀裂が残っており、その後しばらくは余震のたびに粉塵を吹き出し、復旧作業を滞らせた。茨城県南部に位置する筑波大学のこの地震による被害は約70億円と推計されており、筆者がこの編者後記を綴っている2011年8月末現在、見渡せる周囲に限っても、現況は全面復旧にほど遠いことが見てとれる。
この震災のなかで、日本に住む「移民」はどのようにふるまったのか。本書の監修を担当された駒井洋先生が「刊行開始にあたって」で言及しているように、右の問いに対しては、本書から始まる「移民・ディアスポラ研究」シリーズにおいてすでに取り組んでおり、その成果をまとめつつある。ただし関連するところで、わたしの身の回りで起きたことをさらに若干書き連ねれば、震災直後に母国へと帰国した留学生は多かったが、そのうちの大半はすでに大学に戻り、以前と変わらぬ熱意をもって勉学に勤しんでいる。わたしのゼミやクラスの受講生には、日本社会の復興のための仕事がしたい、と語る留学生もいる。滞在年数が長い留学生やわたしが日頃から懇意にしている外国出身者には、感嘆をもって報道された震災後の日本人の冷静な振る舞いにさしたる驚きを覚えず、むしろ日本の被災状況を伝える母国の報道や家族の反応が「おおげさ」であり「過剰」であると感じる、と話すものもいた。そのような態度や言葉を見聞きするたびに、本当かどうかは別として、異国に移住したもの特有の心性の変化を察した気にもなる。
震災を受けてあらためて考えざるをえなかったのは、社会の「構成員性」についてである。そして、多国籍からなる住民が日本社会に暮らし働いているという、当たり前の事実についてである。ご記憶の読者も少なくないと思う。津波に襲われたかの土地の水産会社の役員が、身を賭して、自社に勤める中国人研修生の命を救ったという出来事が報道された。別に思いつくところを述べれば、一帯が瓦礫の山と化している被災地で難民がボランティア活動に従事しているシーンが、テレビ番組にて放映された。
こうした話に、筆者は無条件に感激させられた。ただしこの種の「美談」をわたしにとってより特別な美談たらしめている何かがあるならば、それはおそらく、自身に内面化されている、社会構成員としての日本人とそうではない外国人という固定的で二分法的な見方なのかもしれない。そうであるからこそ、先述のふたつの「美談」の後者をあげれば、難民への支援ではなく難民による支援を、主客が逆転した見慣れない風景としてそこに観てしまった。うがった自己省察に過ぎるだろうか。
本書のなかで例証しかつ反証しようとしたのも、突きつめれば、とかく移民研究のなかでこれまで繰り返し批判を受けながらも、領域主権国家システムに生きるわたしたちの多くが宿命さながらに踏襲し続ける、右に述べた「われわれ国民」と「彼ら外国人」という二分法の妥当性である。それを問う時代的背景が、本書に取り上げているとおり、2008年秋に発生した金融危機とその後今日にまで至る長期不況であった。移住労働者は、本質的に脆弱であり、不景気のなかでは恵まれない境遇を甘んじるしかないのか。一時的に滞在している労働者であるがゆえに仕事を失えば母国に戻ると想定される移住労働者は、ホスト国の正規メンバーとして迎え入れられることはないのか。そのようなステレオタイプはしかし、どこまで経験的に有効なのか。
本書では、こうした問いを念頭に置き、日本および海外の事例を取り上げ、経済危機下の越境労働の実態および移民・外国人の雇用に関する制度上の問題点を考察した。さらに、その存在に否応なく付きまとう政治性にまで言い及んでいる。そして3・11以後も、本書において考察を加えた移住労働をめぐる政策上の課題は構造的になんら変わっておらず、近い将来において変わる気配もない。すなわち移住労働を理解するうえで、経済危機はその時事性を今も失っていない。
なお、2008年秋の金融危機は、過剰な投機が生み出したおよそ人災といえるものであり、それから3年を待たずに発生した東日本大震災は、その原因だけをとれば天災であった。被災の対象も内容もまったく異なる。このようにみれば同列に並べるべくもない「危機」ではあるが、ともに「未曾有」という形容をもって短期間に日本社会を直撃したこのふたつの災いは、先に述べたように、日本に住まう外国人のメンバーシップのあり方を再考する契機であるという点において、共通項がないわけではない。本書の試みが十分にその目的を果たせているかどうか、読者からは忌避なき意見と批判を仰ぎたい。
(…後略…)