目次
巻頭のことば 空白の「災害と貧困」研究(青木紀)
特集1●子どもの貧困と対抗戦略――研究・市民活動・政策形成〈貧困研究会第3回研究大会共通論題より〉
基調報告:貧困・家族・子ども(青木紀)
イギリスにおける子どもの貧困とCPAGの活動(フラン・ベネット)
日本における子どもの貧困と市民活動(湯澤直美)
コメント:貧困に対する三つのステージ(阿部彩)
コメント:子どもの貧困研究の射程(横井敏郎)
シンポジウムまとめに代えて(松本伊智朗)
特集2●貧困測定の研究
(1)「流動社会」における生活最低限の実証的研究3――「全国消費実態調査」との比較(村上英吾)
(2)日本のワーキングプアの測定(村上雅俊)
シリーズ:貧困研究の課題6 女性と貧困
母子世帯の所得分布と児童扶養手当の貧困削減効果――地方自治体の児童扶養手当受給資格者データから(藤原千沙/湯澤直美/石田浩)
福祉施設利用に見る女性の貧困(川原恵子)
この人に聞く 第6回
日置真世(NPO法人地域生活支援ネットワークサロン)
――貧困問題の実践と研究を、制度に結び付けていきたい(インタビュー:岩田正美)
投稿論文
中国・内モンゴル自治区における「生態移民」の貧困問題――移住民の生活様式の変化を中心に(アルタンボリグ[Altanbulag])
書評論文
樋口美雄・宮内環・C. R. McKenzie・慶應義塾大学パネルデータ設計・解析センター編『貧困のダイナミズム』(濱本知寿香)
岩永理恵著『生活保護は最低生活をどう構想したか――保護基準と実施要領の歴史分析』(布川日佐史)
海外貧困研究動向
アメリカ福祉改革下における福祉事務所研究(木下武徳)
国内貧困研究情報
1 貧困研究会第3回研究大会報告(2010年11月6日~7日、於:北海道大学)
(1)自由論題I「日本とカナダのワーキングプア」-1)
日本におけるワーキングプアの就労と生活の実像――連合・連合総研調査から見えてきたもの(福原宏幸/樋口明彦/村上英吾/西田芳正/吉中季子)
(2)自由論題II「地域における貧困と自立支援」-1)
東北地域における「不定住的貧困」――東北3都市の調査から(小池隆生/佐藤嘉夫)
(3)自由論題II「地域における貧困と自立支援」-2)
地方における貧困化の新しい傾向について(宮寺良光/佐藤嘉夫/小池隆生)
(4)自由論題II「地域における貧困と自立支援」-3)
生活保護の就労自立支援(五石敬路)
2 興味深い実践を知る 子どもの貧困と学校の役割(肥下彰男)
貧困に関する政策および運動情報 2010年7月~2010年12月(山田壮志郎/五石敬路/村上英吾/北川由紀彦)
貧困研究会規約
原稿募集及び投稿規定
編集後記
前書きなど
巻頭のことば 空白の「災害と貧困」研究――われわれは何ができるか(青木紀:名寄市立大学)
震災後しばらく、何を書くべきかが見えなかった。書く意欲もなかなか湧いてこなかった。ショックということばでは表しえない、何かしらの茫然自失状態だった。被災者ではないわが身でもそうなのだから……と思う。あまりの惨害に「貧困」ということばも浮かんでこなかった。生き残った人びと、何十万という被災者・避難者、これからその生活はどのように支えられていくのだろう。地元の人びとを支えてきた産業もほぼ壊滅状態。放射能汚染の影響はどうなるのか。ある程度は想像できるにしても、映像を通じた現状が見えすぎて、貧困との関連づけはなお「見えない」。しかし、これからが貧困問題の“本番”になるという悪い予感が当たらなければと思う。
3月末。そんな無力感の中で、インターネットで「災害と貧困」「地震と貧困」を検索してみた。ほとんどがハイチ、スマトラ沖、四川、カトリーナといった関係の内容であった。国内のそれでは、ようやく反貧困ネットワークがブログを立ち上げ、いくつかの情報を提供し始めているところだった。
さらに、国立国会図書館のNDL-OPACで論文検索をしてみた。2001年以降およそ10年間、「地震と貧困」では1件(インドネシアの復興)、「災害と貧困」でも6件(ハリケーン・カトリーナ、インドネシアの津波関連など)しかなかった。「地震と格差」でも5件、「災害と格差」でも11件(ここでは阪神・淡路大震災関連がわずかに顔をのぞかせている)である。単行本・和書においても、そのものズバリの、いのうえせつこ『地震は貧困に襲いかかる』花伝社(2008年)だけだ。つまり、貧困研究という点からすると地震や災害に伴う研究は、ほとんど空白であることに驚かされる。もちろん、関連する報告書は相当数にのぼっている。まだ、貧困とは結びつけられていなかったということだろう。
まず、二つのことが指摘されるかもしれない。一つは、いわゆる開発途上国研究における貧困問題へのアプローチと先進国と言われる国々における貧困研究との分離ということ。いま一つは、現代社会における貧困という概念自体がもつ特徴自体が、いわば「自然災害」との関連においては問題にされてこなかったこと。もちろん「社会災害」という見方はある。この大震災も間違いなくその関わりが強調されてくるだろう。しかし先進国における貧困研究は、せいぜいカトリーナによる貧困・格差の露呈といったところでとどまってきた。
もう少し踏み込んで言えば、このように言えるかもしれない。すなわち、先進国と言われる国々を対象とする貧困は計測され、その概念は複層的となり、それはそれで説得力も増したようには見える。だがそれは、一方ではリスク社会・不安定社会などと特徴づけられながらも、他方では“安定した”福祉国家の中の貧困研究であり、したがって定義される貧困は“静態的”な概念とでも言うべき性格を色濃く持っていた。そんなことが、突然生まれた“大集団”の被災者・避難層を目の前にして、ある意識上の距離を、少なくとも筆者にはもたらしているのかもしれない。
しかし、先にも紹介した著書が指摘しているように、災害は貧困層・底辺層においてほど深く広く襲いかかるし、それだけまたそこでは回復も難しいことに間違いはない。したがって本来なら、直接あるいは間接にフォローする研究が求められていたとも言える。近年のパネル研究(縦断研究)もまた、そこらを射程に置いたものではない。だから、阪神・淡路大震災でも、住宅ローンを抱えたまま被災した人たちのその後の運命はとなると、よくわからないのも事実だ。だが確実に、いま現在、大集団が貧困ライン以下の生活を余儀なくされ、今後は避難先と周囲の社会との比較意識や疎外感からも苦しめられ、あるいは底辺へ固定化されることなども予測される。
すでに「派遣切り」「内定取り消し」「解雇」などが被災地に限らず出ている。当該地の農業や水産業も壊滅的である。おまけに放射能汚染を考慮すると、復興過程すらイメージできない。しかしおそらく、すでに親族ネット資源格差における生活援助の差異、今後の雇用をめぐる職歴・学歴格差、あるいは住宅に対する地震保険の有無なども大きな意味を持ってくるはずである。その中で、貧困・格差は進行するだろう。また、増え続けている生活保護の意味合い(生活保護観)も、もしかしたら少し変化するかもしれない。
親を失った子どもたちへの対応、介護を必要とする高齢者や障害を持つ人々への対応、仕事を失った大人たちへの対応と収入の確保、家族を破壊された人々への対応、住宅を失った人々への対応、新天地で生きることを余儀なくされた人々への対応、再び被災地に住むこと選択した人々への対応、水産業、農業、その他自営業、そして多くの人びとが従事するはずの商工業の復興など。課題はあまりに多い。
その中で貧困研究は何ができて、何ができないのか。さまざまな問いかけがわれわれに投げかけられてくる。
5月連休明け。先に生活保護について少し言及したが、昨日(5月12日)の厚生労働省の公表を受け、各新聞あるいはテレビのニュースは「生活保護200万人突破確実に」「半世紀ぶりの高い水準」などと伝えている。ともかく、不況による厳しい雇用情勢に加えて、このたびの震災と原発関連の影響で、繰り返すが、貧困が「本格化する」可能性が懸念される。詳しい情報は持っていないが、ついでに言えば、今年度の生活保護費が3兆4000億円あまりと予想され、不正受給の防止とも関わって生活保護法の改正に着手するようだ。
そこで、考えてみたいことは二つある。
一つは、貧困に関心を持ってきた、あるいは貧困を研究の対象にしてきた「われわれに何ができるか」ということを、早急に、正面切って議論してみることである。たしかに「研究上の空白」はあるにしても、貧困研究の経験や“貧困の現場”をそれなりにフィールドの対象にしてきたわけだから、その点からだけでも、今後何が予測され、いかなる手が打たれるべきか、そのことを議論するだけでも意味は大きいのではないか。
いま一つは、生活保護制度を中心とする政府の貧困対策と研究者や活動家との関連は、局面によってさまざまであるだろう。そのことは、この本誌第6号において、フラン・ベネットさんがCPAG(Child Poverty Action Group)と政府との関連で興味深い内容を報告している。そんなことをも気にしながらも、それぞれの距離はそれとして認め合い、創刊号の巻頭言でも触れたように、本誌が「対話と前進」でことに当たる“場”を提供したいものだということである。